昭和の航空自衛隊の思い出( 58)  一般幹部候補生(部内)選抜試験

1.部内の一般幹部候補生選抜試験受験の背景

    昭和32年4月、第1操縦学校における初級操縦課程で操縦免、浜松基地の整備学校(現第1術科学校)へ士長で勤務となった。学校本部総務課に勤務し、同年8月3曹へ昇任した。次の2曹は1回お茶を引いて34年2月昇任した。
    この間、操縦課程を順調に進んだ第1期操縦学生の同期が続々と浜松基地の航空団へ集結した。ジエット機操縦を習得するためである。
    久しぶりに見る同期生の襟に飛行幹部候補生の座金が燦然として輝いており意気揚々としていた。
    この時は、操縦学生免の挫折感はふっきれて完全に割り切っているように見えたが、彼らの勇姿をみると、何としても後につづかなければと固い決意を胸に秘めた。
    当時2曹昇任後1年で部内の一般幹部候補生選抜試験受験の資格ができたので、目標を一発で合格するようひそかに決意した。
    学校総務課の勤務は、自分の性にあっており、水中を泳ぐ魚の如く、われながら生き生きとしてすべてにわたって充実した生活を送った。
   総務課長以下班長・先任空曹・先輩空曹の硬軟の指導と数々の体験のほか 内務班副班長・班長の経験は指揮統率のあり方を学んだ。
   部内の一般幹部候補生選抜試験の受験準備の重点は、特別な受験勉強をするのではなく、現在の職務を通して能力を高めることに徹した。具体的には、
❶現在の職務について、常に創意工夫、問題意識と方策を頭においで取り組めむこと。
自衛隊全般に関する幅広い識見を身につけるため諸法制、軍事情勢への関心と理解に努めること。
自衛隊のことに限らずに社会全般の出来事について、常に自分の考えや所信・意見を持つ、そのため小論文(作文)にまとめる事にした。
 
2.学校上層部の熱心な指導と部内幹候選抜試験の合格
    当時、整備学校(現第1術科学校)は、部内幹候受験指導に学校上層部の部課長を当たらせ、通常の勤務時間が終了してから受験資格者に対して集合教育を行った。教官陣は時間外に講義を行った。当時多数の課程学生を抱えて2部授業をやらねばやっていけないほどの厳しい環境でありながら積極的に受験指導が行われた。
    創設期だけに、幹部要員の確保の面からも、幹部へ進みたいとする若い空曹に対して幹部への登竜門として開かれた部内幹部候補生選抜試験に挑戦することを勧めていたのである。その指導と配慮は受験者にとって有難いものであった。
 私は、仕事を終えてから、全部の科目を熱心に真面目に受講したように記憶している。
    特に 小論文(作文)では、学生隊長の高野2佐に熱心に何回も何回も指導していただいたことが強烈に記憶に残っている。
 幸い、選抜試験に合格し、昭和35年2月1等空曹・一般幹部候補生に任命され、第23期一般幹部候補生(部内)として奈良基地にある航空自衛隊幹部候補生学校へ入校した。
    約3年にわたり鍛えてくれた思い出の第1術科学校に万感の惜別と感謝を持って岩月良行総務課長以下総務課の諸兄に見送られて奈良へと旅立った。
 入校学生は60名で、その時飛行職域から離れた第1期操縦学生出身の第1陣の10名は、菅信介、恩田守、村田隆、高橋洋、山田繁、宝官賢治、千綿安次、熊谷邦之助、猪膝康二の各君と私であった。
 部内幹部候補生の最年長は36歳、最若年者は操縦学生1期出身の23歳であった。私は24歳であった。入隊時の年齢が18歳と19歳の違いがあっただけのことである。
    60名の学生の中で若手組に属し、各種学科、教練体育、野外訓練等あらゆる面で柔軟性と体力的にも強健であったことから割合にすんなりと10か月の教育課程を乗り切ることができた。
(続く)

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 《 昭和35年2月、幹部候補生学校に入校し、10か月の部内幹部候補生課程を履修し同年12月晴れて卒業した。その間10月に美保基地における航空実習の折、休日に郷里鳥取県羽合町(現湯梨浜町)の両親の元を訪れて、幹部候補生の座金を付けた姿を報告した。一番末っ子であったので、両親は紋付姿で心から迎えてくれた。今にしてみると当時の両親の心情が手に取るように分かる。親とは有難いものである。 》