昭和の航空自衛隊の思い出 (56)  全員制服で外出した時代

1.創設期の外出模様

    昭和30年1月の陸上自衛隊、同年6月の航空自衛隊への入隊から昭和34年ごろまで、外出は全て制服であった。浜松市内は休日ともなると、多くの隊員の姿が見られた。特に、浜松基地は、昭和30年代の前半は陸海空の入校学生であふれていた時代であった。

    若い営内隊員が街に内緒で下宿先を設けて、そこで私服に着替えて遊びに出かけることはあったであろが、私の内務班ではそのような者はいなかった。

     昭和34年ごろから、上司の了解を得て内務班全員で街中に一部屋を借りて、私服を保管して、そこから遊びに出かけるようになったと記憶している。

     こうしたことから基地内で生活した若い時代の写真は、宴会であろうが全て制服か作業服で写っている。帰省した折の写真も皆制服姿であった。

     今日は街で自衛隊員が制服姿で歩いている姿を見かけることはなくなった。

     自衛官の6大義務は、自衛隊法で、「指定場所に居住する義務」「上官の職務上の命令に服従する義務」「品位を保つ義務」「秘密を守る義務」「職務に専念する義務」が定められている。

 ちなみに、「品位を保つ義務」は、
第五十八条  隊員は、常に品位を重んじ、いやしくも隊員としての信用を傷つけ、又は自衛隊の威信を損するような行為をしてはならない。
2  自衛官及び学生は、防衛大臣の定めるところに従い、制服を着用し、服装を常に端正に保たなければならない。
 制服は、職務を遂行するときに着用するものだとの考え方に立てば当然のことであろう。

 こうした観点からすると今日の状況は普通のあるべき姿かもしれない。職務を離れて酒場に行ってゆっくりと酒を味わうにはラフな服装で立ち入り楽しめばよい。制服姿は職務の象徴である。自衛官にとって凛とした制服姿が一番恰好がよいものだ。制服の着用が時と所によって、その場にふさわしい状態であればすんなりと受け入れられるではなかろうか。

 

2.保安巡察勤務

 航空自衛隊の創設期は、浜松基地で勤務した折、「巡察」の腕章を着けて浜松市内の繁華街等に出かけ、保安巡察勤務についたことがある。

 保安巡察は、基地司令等が必要と認めた場合に、基地等外の必要な場所を巡回し、隊員の規律違反を防止し、風紀を維持し、且つ病気その他の救護を要するものを保護することに設けられた制度である。

 命令によって、勤務者は毎週の休日は、ジ-プに数名で搭乗して市内に操り出し職務を行った。外出の隊員は全員制服であり、どこにいるか一目瞭然とし、劇場‣酒場・遊楽街どこでも出かけて巡回した。特に保護した隊員はいなかった。どこに行っても制服に身を正し、「巡察」の腕章は「葵のご紋」の如く威力を発揮した。巡回先の関係者は巡察がどんな役割かよく知っていて、それこそ「どうぞ、どうぞ」と積極的に協力してくれた。隊員に関わることで困ったことがあったら巡察に申し出たら処理してくれるというので評判がよかった。

 後年、幹部となって、各基地において当直幹部に就いたころには、巡察の運用はあまりなかったように記憶している。今の時代も制度としてはあるであろうが、隊員の外出はすべて私服であり、難しい時代となってきているのではなかろうか。懐かしい時代であった。

 

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《 昭和30年8月 20歳・1士の頃、 第1期操縦学生として防府基地幹部候補生学校に在学中の夏休休暇で鳥取県東伯郡羽合町(現湯梨浜町)に帰省し、羽合中学同級会に参加した。世には税金泥棒といわれた時代であったが、私は一回もそのような目に合ったことはなかった。胸を張って制服で参加した。自らを律する点では制服の着用は凛としたものがあり、どこに行っても毅然とした態度で過ごしたから爽やかな気分であったことを覚えている。》

 

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《 昭和32年10月頃 22歳・3曹で巡察の腕章を着用して、いざ任務へと就いた。巡察の任についた時は、浜松市内において制服姿の自衛官の行動がどのようにが映るのか第三者的・客観的な立場で見ることができて、非常に勉強になった。》

 

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《 昭和32年ごろの浜松駅前、和地山公園で凧揚げが行われた浜松まつりの頃と思われる。西山町浜松行きのバス乗車場は駅正面の真向いの銀行前にあり、外出帰隊時刻となると、隊員が黒山の如く集結してきた。バスは満員で降車口もあぶれるばかりであった。》