昭和の航空自衛隊の思い出(49) 死語となったツ-ダン・スリ-ダン

1.  国力が豊かでなかった時代の給食事情 

    今の日本は飽食の時代で、田舎も都会も大体食生活は同じになって、年中ごちそうを食べているようなものだ。世界を見渡せば、貧困で食べることさえままにならない国が至る所に存在する。それにしても、高いカロリ-の摂取のため逆に制限をしなければならない時代に入っている。私自身が食生活には注意をしなければならない年齢と環境にいる。

 ふり返ってみると、わが国が昭和20年8月大東亜戦争に負けて、本当に何もないところから立ち上がった。私が自衛隊に入隊した昭和30年及び同代の前半は、日本も豊かではなく、むしろ貧しかったといってよい。

 自衛隊の隊内の集団給食は当時それなりのカロリ-3,500程度が確保されていたであろうが、量的には制約があり、食べ盛りの若者にとっては、満腹感がなく、不足していたようだ。基地内にあるPX(売店)は夕食後といえども、食堂は大いに賑わっていたように記憶している。

 当時は、人造米の入ったバサバサしたご飯であったが、皆幸せそうな顔をなしていた。かの有名な黄変米も食べたことがある。質より量が欲しかった時代だった。

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 《 アルミの食器に、自前のフォ-クで食べた。フォ-クはポケットに入れて、食前に洗って使い、常時どんな場所でも食事ができる体制にあった。》

 

2.    日本の経済成長・国力とともに隊員の給食事情が向上した!

 当時、基地内で居住する営内隊員には、各人一枚の食券が交付された。食券には1カ月の日と朝・昼・夕の欄があり、隊員食堂で食事をする度に、確認印を押してもらった。食堂の通路には鬼軍曹的な給養担当の隊員がどっしりと構えていて、ひとたびこの関所を通ったら再通過は出来ないようににらみを利かせていた。給食員の盛り付けた量しか食べられなく、腹が減っても不正?に2回以上食事ができないようにしていた。

 今は、食べたいだけの量を盛り付けてもらい、欲しい副食物を選択して楽しく喫食しているようで、今昔の時代の流れを強く感じる。

 当時、若い隊員の中には知恵者の強者がいた。大食堂で数百名が行列を作ってどんどん進んでいくと、時には給食担当の関所役殿の押印が薄く判りにくかったりすることもある。腹が減れば知恵が働き、はっきりと押されたものでも創意工夫?して消す方法を考案するものだ。2回目、3回目の関所破り・食事をすることを「ツーダン」「スリーダン」と言っていた。

 国民全体が食べるのに精いっぱいであった。ましてや防衛費は少なく、糧食費に制約のあった時代のこと。給食担当はそれこそ大変な思いをしたことであろう。

 すべて一定量しか盛り付けがなく、食べたくてもそれが許されない、出来ない時代であった。アルミの食器が懐かしくなる。

 ある時代から、ご飯は食べたいだけ大盛り、小盛りと希望どおり、副食物等は自分で選択してとって良いことになった。日本の経済成長、国力の増進とともに隊員の集団給食事情も充実し変わってきた。

  現在の隊員には、「ツーダン」「スリーダン」は死語となっているであろう。遥か昔の懐かしい言葉で知る人も少ないであろう。

 

3. 豊かになった日本の学校の給食事情

  このごろ年に一回ぐらいは、小学生と一緒に昼食を食べることがある。給食が普通になって、当然のことのようになってきた。私のように学校で給食を経験したことのない者は少なくなった。学校給食は学校生活の一部となっている。

 子どもたちと一緒に給食を味わえるのは楽しい。

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 《 ふれあい大学一日入学で食費を払い、小学校で児童と一緒にお昼給食を食べた。担任先生の指導下、給食当番が皆に均等に配分した後、「もっと欲しい人は手を挙げて」と担任の先生が声を出すと、元気よく手をあげる子がいた。数物の場合は、ジャンケンでその分を決めているようだ。本当に日本の国って「豊かでよい国」だと思う。幼稚園では並んだ順番で残りを配分していた。いろいろな方法があるものだ。》

 

4.   自衛隊の集団給食能力の確保

 自衛官は指定場所に居住する義務がある。昭和の時代は、空曹は家庭を持ち一定の資格を有するものは営外居住を許可された。普段の自衛隊勤務は毎日弁当を持っての通勤となる。さもなくば基地内の売店食堂で食事をする以外に方法はなかった。一般会社員のように昼食時に食堂街に出てぶらぶらと散策したり食事をすることはままならないから、そのような風習はなかった。 

 訓練演習ともなると、参加の全隊員が無料喫食することができたが、普段の勤務は有料でも隊内の給食を利用することはできず、時折、予算の範囲で月に何回か有料喫食することができたように記憶している。  

 古来軍隊の命脈は軍人同士が同じ釜の飯を食い、訓練で鍛え、団結して部隊力を発揮するにあるが、各個弁当持参では締まらない。果たしてこれで良いのだろうかと思うこともあった。

 自衛隊が他の集団と異なるところは、自己完結力、いついかなる時でも基地・部隊が他の力を借りないで食べること、寝ることなど生活のすべてをまかなえる能力を持っていることであろう。これらは日ごろそれだけの人員・装備・施設機材等を持って運用しているから出来ることである。

 給食もしかりである。普段からそれなりの集団給食体制ができていないと、いざ鎌倉という非常時に役立たないのは自明の理である。自衛隊の任務・行動を考えれば、通常の勤務間から営外者にも有料喫食を認め、それなりの集団給食体制を維持することが必要ではなかろうか。当然のあるべき姿ではなかろうか。 

 出動隊員の給食、避難者等の支援という面からも、3.11の東日本大震災の教訓等からあるべき自衛隊の姿になりつつあるやに漏れ聞いている。有事には生死を共にする部隊・隊員が各個バラバラの弁当持参では様にならない。自衛隊の任務遂行の原動力はどこから来るのか考えた時、「集団給食体制の維持」「部隊食の喫食」「隊食の内容」は必要不可欠のもので実に大きな意義を有している。

 こうした視点で、自衛隊の任務遂行と集団給食体制の現状に関心を持って眺めている老兵の一人である。ツ-ダン・ スリ-ダンの時代は創設期の神代の物語となった。