昭和の航空自衛隊の思い出(48)   視野を広くした人事員課程

1.人事課程で勉強したい!

 昭和30年6月第1期操縦学生として入隊して以来、防府・浜松・小月基地と2か年は学生であった。幹部候補生学校の操縦学生基本課程、臨時英語教育隊の英語課程を卒業した。次いで、第1操縦学校の地上準備課程も修了し、初級操縦課程で単独飛行寸前にピンクカード3枚となり、操縦免となった。

 昭和34年4月浜松基地の整備学校の総務課で、初の実務を行うようになった。

  総務課の総務班の各業務を順繰りに研修しているうちに、本格的に,専門的に特技の勉強をしたくなった。今振り返ると、まだ操縦学生の名残があったのか、とにかく探求心と向上心・向学心に燃えていた。

 当時、総務職域は課程教育がなかった。操縦学生免となった同期生がそれぞれの専門の特技課程に入っていく姿を見て、このままでは取り残されるような思いがしたのか、「人事員課程に入りたい」と上司に申し出た。

 こうした経緯があって、上司も私の熱意にほだされたのか、「人事員課程を修了しても、今の仕事を続けるという条件付きで」「人事員課程」に入校することになった。当時、整備学校の分校が岐阜基地にあり、人事・会計等の課程を教育していた。 

 

2.   広い視野と自信を与えてくれた人事員課程

 昭和34年1月念願かなって整備学校分校の「第5期人事員課程」へ入校した。副学生長を命じられ、入校して間もなく同年2月には2曹へ昇任した。久しぶりの学生となり一生懸命修学に励んだ。総務課で法規類集の内容をしっかり頭に叩き込んできたので、人事に関する規定等もすんなり理解が容易であった。課程内容は実務経験はないがそれほど苦労することもなく習得することができた。

 ここでは、操縦学生同期と異なった様々な出身期別の多くの人事仲間の同期を得ることができた。総務の仕事の上に、さらに新たなる知識を吸収し、ずいぶん視野が開け自信がついてきた。この分野は自分に向いているようにも思った。俗にいう「好きこそものの上手なれ」の類で、学生生活は魚が水を泳ぐかのごとく充実したものであった。

 課程卒業後は、上司との約束通り人事業務にはつかず、元の職場において福田正雄先任の元で総務業務全般を担当することになった。

 この課程修学の機会が、どんな理由であったにしても私にとっては操縦免による屈辱感と挫折感を払しょくするに絶大な役割と転機を与えてくれた。自信を持って新しい人生に立ち向かう原動力となったのである。完全に立ち直り、過去にこだわらないようになった。おおらかに受け止め良い経験をしたと思うようになった。当時の上司に感謝してもしきれないくらいである。

 後年、人事幕僚として各級司令部及び航空幕僚監部の人事課に勤務した折、空曹時代に一緒に勉強した人事課程学生が主要な部隊等の担当者になっており、随分意思の疎通と業務処理が円滑に進むことになった。

 

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《 昭和34年1月 岐阜基地の整備学校分校人事課程入校中は、課程同期と一緒に外出し金華山岐阜城を見物した。》

 

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 《 第5期人事員課程卒業記念 昭和34.1.7~34.3.27  12週 学生長小林2曹・副学生長濵田2曹・小林弘三3曹・上本光明3曹のほか空士学生であった。整備学校分校の課程は、後ほど第3術科学校設置に伴い移管されていった。後年、人事幹部課程に学び、母校の人事・総務・要務・教育技術課程の担当科長となって後輩の教育に精魂を傾ける機会を与えられた。やはり縁があったのであろう。》