浜ちゃん日記  人生の折々の記録

1.  人生なるようにしかならない

 この頃は1~2日に一回は大きな行事等に参加している。手帳の予定を見ても何もない日はないほどだ。腰が痛いの、身体の調子がどうのといっている暇もない。歳の割には自分でもちょっと行動予定が多いかなぁと思いながらも、意識をして逐次整理はしているものの「できるときはそのままでよいのではないか」と割り切っている。

 こうした状態がいつまで続けられるのかは神のみぞ知る事柄であろう。来年迎える80歳の坂を越えたら自ずと体がついていかなくなるであろうから「人生なるようにしかならない」と達観している。1カ月程度の毎日の行動予定の大筋は決まっているので、その合間に自分の身辺の整理やブログを書いている。

 

2.  時間がない時ほど挑戦意欲が湧く

  ブログも日常的なことは簡単ですぐに出来上がるが、「思い出」となるとはるか50~60数年前のことなので記憶をたどるのに時間がかかる。思い付きというわけもいかず資料等で確認することになると意外に時間がかかる。

 昭和の45年前後、指揮幕僚課程(CS)受験を志した前後、35歳前後からはメモを残したりしているので出来事や当時の所感を記したものがあるが、青年時代はあらゆることに必至に生きてきたせいか記録する余裕がなかったかもしれない。

 人間暇なときより、忙しいと思っているときの方が冴えていろいろなことができる。ふしぎなもので、ブログ書きも同じようなものだ。余裕の時間がないからかえって貴重な時間を生み出し挑戦する意欲が湧いてくるのかもしれない。

 

3.割り切っていて割り切れない

 この頃は身辺の整理をする年齢に入っていると自覚している。書籍、所持品を含めて愛着のあるものばかりであるが、いつかは始末をしなければならない。自分の手で始末をするのが理想的な姿であろう。それがなかなかできないのが人間だ。割り切っているようで割り切れていない自分が存在しているからだ。

   名誉・地位・財産とかといったものには本来あまり縁がなかったせいか、執着するものもない。そうでありながら身辺整理という点では、緒に就いたばかりでノロノロ運転状態である。まずは書籍あたりから整理したいと思っている。

 

4.まだまだ俺は先だと思っている

 がんが発見された時も、手術のときも自分の死について意識したことはない。鈍感なのかもしれない。歳をとりその時が来れば人間だれでも死んでいくものだと思っている。特別な宗教観があるわけでもなく、達観したわけでもなく、悟ったわけでもない。ただのおじいであるが、俺があちらに行くのはまだまだ先だと思っている。特別に意識したり、思ったりしていないだけのことである。

 周りの身近な人たちを見送ることが多くなった。寂しいことではあるが淡々と受け入れている。80歳が近づいたが、重いものを持ったり、動かそうとすると「あれっ」と体力の衰えを意識することはあっても気分は全く歳を意識しないでいる。

 

5.   各年代の生きざまを折々に記録

 小学校6年担当の岸田善吉先生指導による「養心録」から始まって、青年期・壮年期等々の各期を通じて、日記やその折々の所感を綴ってきた。特に意図はないが、その時代・年代における自分の生き方を整理したかったのであろう。

 高校を卒業して自衛隊入隊以来の心の遍歴の記録でもあるが、これらが自衛隊時代の思い出をたどるのに役立っている。これらもゆくゆくは消え去るものである。これで良いではなかろうか。人の人生はそのようなものであるからだ。