1. 庶務全般・命令伝達を学ぶ、
昭和32年4月総務課総務班で学生要員士長のまましばらくお手伝いをした後、同年8月3曹へ昇任し、学校職員として正式に配置された。爾後、文書係として文書受付・発簡・整理保管・郵政などを担当した後、警備・訓練係として、訓練計画の作成・調整・現地偵察、命令の起案・実施、非常呼集体制の整備その他特命事項の処理を経験した。
昭和34年2月2曹に昇任後は、総務課内務班長を命ぜられ内務班13名前後を率いる傍ら、主として総務課先任空曹福田正雄1曹の元で庶務全般・印書及びタイピストの統制係、会報の起案・当直の調整・日日命令の起案・命令伝達・服務規則等の一部起案・水泳大会、運動会の実施計画の作成などを担当して諸業務を経験した。
2. 先任空曹・空曹の理想像を学ぶ
❶ 実力者の先任空曹及び上級空曹
創設期の航空自衛隊における空曹、昔流にいえば下士官の実力たるや実に素晴らしいものがあった。その実力集団は今日の三自衛隊に継承されている。
初の実務配置において、実力のある先任空曹及び上級空曹の先輩と一緒に仕事をしてその真価を日々経験し感服した。
とりわけ、整備学校の各部課の先任空曹は、旧軍歴もあり堂々たる大物の1曹が就いており、重量感があった。その中でも飛び抜けてひかり輝いていたのは総務課先任空曹福田正雄1曹であった。各部課の先任空曹を確実に掌握し、その手腕たるや実に見事であった。
現在のような准尉、曹長の階級はなく、空曹の最上位は1曹であつた。又、先任空曹の位置づけについては、運用規定及び個別命令の発令はなかったが、実質的には一般的に、隊員間で広く「先任空曹」の呼称は定着し、各部課の職位組織図に「先任空曹」を設けていた。
このように、創設期から名実ともに実質を伴なった実力のある先任空曹が存在し、主として曹士隊員の掌握・服務指導等に関して指揮官を補佐していたこと、空曹の係長が識見・技能・指導力に優れ戦力の中核となっていたことは特記すべきことであった。
❷ 先任空曹及び空曹の理想像
毎日、大先任の名にふさわしい福田1曹の元で、総務課長の片腕となって俊腕を振う姿を目にして、「最上級の空曹のあるべき姿」はかくあるべしと強烈に印象に残った。また、他部課の先任空曹及び空曹団の存在・実力を垣間見て、「私が目指す先任空曹や空曹はかくありたい」と確信し、その後、部内出身幹部として、人事幕僚として「将来の航空自衛隊における曹士の役割・位置づけと活用」と「航空自衛隊における先任空曹制度の充実発展」に取り組むことは、私に与えられた命題であると考えるようになった。その考えは、幹部になって多くの優秀な空曹を部下に持ちその信念は更にゆるぎないものとなっていった。
後年、階級と職位が進んで、命題に取り組む機会が訪れてきた。それについては別項で触れることにしたい。退官後、十数年後に、現在のような「准曹士先任制度」が制度的に確立されるようになって嬉しく思った。長い長い道のりであった。
3. タイピストの管理と印書
❶ タイピストの集中管理
当時、整備学校における部課隊の文書タイプ業務が増大したことから、各部課に配置されていた女性事務官のタイピストを総務課に集中管理することとなり、初の印書係を命ぜられた。
2曹のなりたてで、いっぺんに女性タイピスト6名ほどを掌握する立場になった。私と同じように操学免となった後輩の鈴木義勝君が助手に配置された。
❷ 初めて初級管理者の経験
担当業務は、各部課のタイプ依頼を統制し、期限日時までに完了させることであった。タイプ処理は依頼元の要望等全般状況を勘案して優先順位の決定、タイプ担当者の指名、各人の業務量・技量を考慮して作業の割り当てなど初級管理者としての様々な経験を積むことができた。
タイプ後の読み合わせ・訂正処理を通じて各タイピストの個性からタイプ自体の特性を学んだり女性職員の管理全般についてあらゆる面で勉強になった。
また、依頼文書の読み合わせ校正作業を通じて学校業務の大きな流れを理解する役得もあった。いずれにしても幅広い視野で物事を見る機会を与えられ経験することになった
❸ 日日命令等の印刷業務
当時は、印刷室にガリ版印刷も一部あったが、日日命令等の印刷部数の増大に伴って、手回しの輪転機が導入され効率的に印刷した。定時の命令伝達の時刻になってもタイプが間に合わない時は、会報程度であれば、私自身がタイプ原紙に手書きをして臨機応変に印刷して命令会報に間に合わせたりした。
業務量は多く、助手の空士を多く使うようになった。印刷業務について体験したことが印刷物一つ手にしてもその陰の苦労が分かるようになった。
❹ 女性職員の管理
印書係として、特に、女性グル-プの仕事管理を経験したことは得難い経験であった。後年、各級の司令部の人事部長・班長として女性事務官・自衛官を部下に持つことになったり、女性の職務範囲の拡大、管理職への登用について関心を持ち積極的に推進することに結びついていった。
《 昭和32年 在りし日の先任空曹 福田正雄先輩、終始先任空曹としての役割を立派に果たされ堅持された。名声や階級・地位を求めず、全隊員から尊敬され組織の礎となる最上級の空曹自衛官の一つの生き方を身を持って教示された。 》
《 昭和55年 福田正雄先輩の退官パ-ティ、福田先任から薫陶を受けた多くの隊員に見送られて退官された。後年は浜松基地援護室の就職援護官として隊員の再就職に俊腕を発揮され素晴らしい業績を残された。退官後も、当時、浜松職業安定所(ハロ-ワ-ク)の就職指導官として再度活躍された。御冥福をお祈りいたします。》
《 昭和55年 福田正雄先輩の退官パ-ティにおいて乾杯の音頭を取る栄誉を与えられた。航空自衛官として、初の実務につき、よちよち歩きの時期に福田先任と出会い育てていただいてから22年の歳月が経っていた。浜松基地に所在する飛行教育集団司令部人事第1班長・2佐となり、多少でも恩返しができるようになってきた。》