昭和の航空自衛隊の思い出(41)  学生要員から学校職員へ

1.   学生要員から総務課のお手伝い   

 昭和32年4月浜松基地の整備学校に所属となり整備学生要員として着任した。 創設期のため毎日続々と学生要員が集結していた。私もその中の一人であり、航空機計器整備員課程入校待の間、学校本部の総務課でお手伝いをすることになった。

 その他多くの学生要員は、課程が始まるまで、「教導隊」と呼ばれた一団に入って、基地・学校の各種の整備作業に当たった。

 

2.その文書はあそこにあります!

 お手伝いは、総務班の文書担当の縣益司郎事務官の元で文書の整理・管理をすることになった。縣事務官は生真面目な方で、単なるお手伝いどころか本格的な指導で学校創設以来の文書の整理整頓・保管作業をすることになった。 

 書庫には、昭和29年9月学校編成以来の書類が保管されていた。一方総務課事務室の書棚には航空自衛隊法規類集等がずらりと並んでいた。

    これらの整理整頓をまかされたので、指示通りに実行した。仕事の合間を見ては、その都度、書庫と諸戸棚に保管されている全部の文書に目を通し読むことにした。

このことからどこにどんな文書・簿冊があるか大体飲み込むことができた。

 ある日、曽我俊一総務班長が何かの件である文書を探しておられた。古参の班員に聞いてもよくわからないで困っている時、私はすぐにどこにその文書があるかが分かった。見かねて、恐る恐る先輩に気兼ねしながら、お手伝いの立場であったが、「あの文書は、あそこにあります。」と、書庫から引っ張り出して持ってきたことがあった。

 

3.   宝の山を見つけた!思いであった

 文書の整理整頓作業に精を出しているうちに、その他の総務業務も手伝ったりしていると航空自衛隊入隊以来、パイロットになるための勉強一筋であったせいか、総務課の仕事は異質で新鮮に映った。

 書棚にずらりと並ぶ航空自衛隊法規類集等は珍しく、惹きつけられた。まずは総括的なこと、総務関係のことを読んでみると、興味が湧き、すべてが新鮮で記憶・吸収することができた。新人で業務の詳しいことはわからなくても大筋を飲み込むことができた。私にとっては、宝の山を見つけた思いであった。

    翻って、自分の資質能力を分析してみると、理科系より文科系であったように思う。中学生の時の恩師・1・2年担任の鈴木治文先生(国語)と3年絹川初春先生(社会科)の感化があったような気がする。

    高校3年の時に6法全書をひもといたり、自衛隊入隊後も退官するまで、そのつど6法全書を購入して最新にしたりしたところを見ると、整備学校の総務課で航空自衛隊法規類集等に興味を持って読んだこともうなずける。

   

4.    学校職員として総務職域に進む   

 こうしたことがあったりして、総務の仕事にかなり関心を持ってきたようだ。ある日上官から「航空機整備の方は入校やめて」「総務課の仕事をやらないか」と持ちかけられ、自分でも今の仕事が面白くなったので、「そのようにお願いします。」と返事をした。直ちに、学生要員から外され正式に総務課員となった。

 

5. 自衛官人生の大きな転換 

 課程入校待ちのお手伝いから「瓢箪から駒が出た」ごとく、整備職域から総務人事職域へと私の自衛官人生に大きな転換が訪れたのである。

 総務課員になってからは、営内者の強みで、機会あるたびに航空自衛隊の法規類集の全部を何回も何回も通読し、航空自衛隊の各分野の事柄について、知識として、法規的な面からかなり理解することができた。

 後年、空曹昇任試験、部内幹候を受けたり、階級が上がり新しい職務に就いたとき、この知識が大いに役立ってきた。

 

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 《 昭和32年5月撮影、4月整備学校に学生要員として着任、満22歳になろうとしていた。総務課のお手伝いで配置になって、1カ月程度たったころ、右から総務課内務班長二階堂2曹・前田2曹・清竹1士・濵田士長、2人はまだ正式な整校名札を作業服装に着用していない。》