1.着陸で操縦適性を問われる
昭和32年1月から北野和夫教官のもとで、操縦訓練が始まった。最初は水平飛行から始まり、空中操作、失速時の回復など毎回、訓練課目が進み自分でも少しづつ自信がついてきた。
問題が一つあった。それは着陸時の操作が不良として指摘された。着陸寸前の1〜2秒ほどの操縦桿の引きが早かったり、遅れがあったりして、滑走路への接地が滑らかかでないことから危険性があるとされたものである。それは着陸時の操作が少しでも不良であれば滑走路から外れたりして閣座する可能性を秘め航空事故につながる危険があった。
着陸操作については自分なりにイメージし、手順を頭に叩き込み懸命に努力するも微妙な感覚がつかめずピンクカードを3枚もらうハメになってしまつた。
単独飛行(ソロ)に出る寸前で,飛行時間も多分20時間以上を超えていたと記憶している。ピンクカードを3枚もらうと操縦訓練中止となり、資格審査にかけられ操縦の継続の可否が審査されることは知っていた。
担当教官の他主任教官の同乗チエックを受けて、操縦者の道を断念せざるを得ないことを自覚した。「生命あっての人生」であることを悟り、きっぱりと「パイロットの道」を諦める決心をするに至った。辛い辛い21歳の決心であった。
2.資格審査委員会
操縦者の資格審査については、しかるべき規則が制定されており、これによって処置された。学校当局の対応は素早く、学校に設置された資格審査委員会(ボード)が開かれ、委員長以下委員列席のもとで資格審査が行われた。やり方は裁判の審理と同じような進め方であった。
詳しい状況は忘れてしまったが、ボードにかかった理由などの説明、操縦訓練の進度と習得状況、私に対する諸々の質問と回答、弁護人の辻3尉学生長の意見陳述などの後、私は退席し、評決が行われた。
再度、席上に呼ばれ、委員会は全員一致で「操縦学生免」と決定したことを告げられた。すでに自分で決心をして臨んだので淡々として決定を受け入れた。
今後の人事上の希望等を尋ねられたので、「航空機整備」をやりたいと希望を述べた。その理由は、飛行機に関わる仕事をしたいとの単純なものであったように記憶している。航空管制・通信の分野を避けて、整備としたのは身近に感じたので選んだようだ。
資格審査委員会の決定後数日にして、昭和32年4月1日付で空幕から「操縦学生免」と「整備学校への転任」の人事発令があり、浜松へ赴任した。
当時、自分なりに決心し、受け入れたつもりでも大空への夢が破れ、「操縦学生」を免となり、人生のどん底に突き落とされた状況であった。唯一の救いは、何人もの同期が相前後して操縦学生を罷免されたことであった。みんなで渡れば怖くない的な心理があったのがせめてもの救いであった。
ここから冷厳な現実を直視し、独りで再び大海に乗り出さなければならない21歳の春であった。
3.操縦学生免
昭和32年4月1日付で.第1期操縦学生として、第1操縦学校の「初級操縦課程学生免」とともに「操縦学生」の肩書も取れて、 一般の空士長として、航空機整備要員として浜松基地の整備学校に着任した。
それにしても、あわただしく小月基地を後にし、新任地の整備学校へ着隊し、激動の時が過ぎ落ち着いてくると、時折胸のうちに挫折感がよみがえることはあったが、それほど暗いイメージはなかった。割合にサッパリしていた。
それは、 当時、浜松基地の整備学校と通信学校に相前後して10名ほどの元第1期操縦学生の「操学くずれ」が集まってきたからではなかろうか。自分一人だけではない。同類の仲間がいることが大きかったように思える。
4.パイロット訓練生の操縦免率(淘汰率)
航空自衛隊の創設期における操縦学生の操縦免率はすさまじいものがあった。単に操縦コ-スから外れるということではなく、訓練中の「操縦学生」にとっては、「操縦免即操縦学生免」あるいは「操縦免即飛行幹部候補生免」の身分変更という一大事であったことである。
特に、隊員として指弾されるような非行行為をしたわけではないにもかかわらず、世間一般でいう懲戒処分と同じような身分変更に直結し、今までの教育訓練の経歴等に関係なく、その時の階級で一般隊員となった。
採用試験の第2次試験で心理適性とはいえ、飛行適性検査に合格して入隊しただけに、第1期生の誰もこうした状況が生まれるとは予想していなかった。
同期生徳田忠成君編集の「第1期操縦学生の軌跡」によると、創設期の10年間の飛行学生の淘汰率について、次のように記述されているので一部を紹介する。この著書は第1期操縦学生に関する第1級の資料として高く評価されている。
第1期操縦学生もこのデ-タにほぼ近いと見てよい。約50%の者が「操縦免・操縦学生免」あるいは「操縦免即飛行幹部候補生免」となった。
ちなみに、私が整理した資料によると、第1期操縦学生の入校者数(入隊者数)207名、操縦学生基本課程修了者数187名、16年後の自衛隊在職者数90名(パイロット37名、その他(操縦免)53名)、基本課程修了者数に対して在隊率48%であった。更に自衛隊で定年を迎えた同期生は71名(パイロット24名、その他47名)で基本課程修了者数に対して38%であった。
こうしてみてくると、実に多くの同期生の半数は私と同じように、もがき苦しみ、挫折の中から立ち上がって人生を切り開いていったに違いない。
徳田君の著書は、当然のことながらパイロットを主体としたものであることから、私は、語られることのない操縦学生免となった者の航空自衛隊における活動と功績について寄稿した。
現在の航空学生制度は、創設期の操縦学生が歩んだ苦難の道や直面した諸問題は解決されて充実安定した制度となっていることを付言する。
《 昭和31年小月基地 第1操縦学校 開校記念日 》