昭和の航空自衛隊の思い出(34) 第1操縦学校における操縦訓練

1. 初の操縦訓練

 ❶ 初の操縦訓練が始まった

 昭和32年1月28日付で「第18期初級操縦課程学生」を命ぜられた。冬場における操縦訓練が開始された。小月基地及び周辺は天候気象が穏やかで安定し、初級操縦教育の環境には割合恵まれたところであった。同年3月末まで約2ケ月操縦訓練に励んだ。

  担当教官は、北野和夫3尉であった。最初は水平飛行から始まり、空中操作、失速時の回復など毎回、訓練課目が進み自分でも少しづつ自信がついてきた。

❷ 壁を超えられずピンクカード

 操縦訓練も順調に進んだ。単独飛行(ソロ)に出る寸前まできたが、ときとして着陸時の操作が荒く、接地するとき滑らかかでないことから危険性を秘めているとされた。

    飛行時間も進み単独飛行が近づいてきた。進入の場周経路の手順など徹底して頭に叩き込み努力するも、最終の着地時の操縦桿の引き上げの時機が早かったり遅かったりして危険な操作とされた。微妙な感覚をつかめないでいるうちにピンクカードを3枚もらうハメになってしまつた。

 自分の操縦適性に勝てず

 着陸時の不良の要因がどこから来るものなのか、わからず、自分でも納得できないものであったが、飛行適性がないことで納得する以外になかった。担当教官も懸命に教えてくれたが、乗り越えられず、残念であったが、「適性がない」と自分にいいきかせた。

    空中における飛行感覚は,地上におけるものとは異なっていた。自分の理性によるものとは違う「いかんともしがたいもの」と自覚するようになった。

❹   空中感覚・反応などの飛行資質       

    自分の拙い飛行体験から科学的な分析ではないが、空中における感覚・反応・動作は当人が持つ飛行資質にあるように受け止めた。

    今、58年前を振り返り、これでよかったのだと思う一方、あの壁を一突きすれば破れたかもしれない。あのまま進んだら大空に散ってしまったかもしれないと人生において、「もしも(IF)」を語ったり、想像しても得るところのものはない。過ぎ去った時は戻せない。人生とはそのようなものだ。

❺   航空機事故の発生

    飛行訓練中のある日、先行コースの同期の一人が単独飛行中に事故となり、搭乗機は大破するも本人は無傷であった。 事故内容・原因等は、はるか昔のことで覚えていないが当時の当該機の残骸を撮った写真が残っている。

    この同期生は、その後、所定の操縦課程を終了し、後年、民間航空の国際線機長として大成し活躍した。現在も健在である。強運とは彼のようなことを言うのであろうか。

    この事故で、同期生が動揺したり、躊躇したり、志を曲げる者はいなかった。私も同じであった。毎日の飛行訓練に必死で操縦技術の習得に明け暮れていた。

❻ 操縦志望を断ち切る葛藤と禁句

 飛行記録をこまめにつけて、その日の課目の良かった点と悪かった点、今後修正すべき事項等教官から指摘された内容をメモし整理していたはずなのに、当時の飛行記録が一切見当たらない。

    操縦免となった時点で、執念を断ち切る、きっぱりと忘れたいとの思いが強かったので記録を一切破棄したのではないかと想像する。

 パイロットを志す限り、飛行日誌など書いていたはずなのに一切ないところを見ると上記のような考えで破棄したのではないかと思われる。今から見ると残念であるが、当時の心境を記録したものは一切残っていない。

 察するに諸々の葛藤の中から、思い切って大空への思いを断ち切る手段としたのかもしれない。こうしたことからその後、「操縦のこと」を口にすることなく、そっとして欲しいと望み、聴かれてもあまり説明したくなかったようだ。しばらくは操縦のことに触れることを禁句として封印してきた。

 そのことにより過去を断ち切り、新しい世界を切り開く懸命の努力が始まった。

❼ 操縦学生の誇りを秘める

 「操縦免」・「操縦学生免」となってからは、「操縦学生であった誇り」は深く胸の内にしまった。「操縦学生であったこと」自体を口外することもなかった。部内出身幹部として進み、他から聞かれない限り「操学1期」であったことも特別なことがない限り口にしなかった。

 第1期操縦学生であった誇りは誰よりも強いと自認していたが、それは自分の心の中にしまった。操縦学生として受けた教育訓練がいかに自分の自衛官生活に有益であったかも自認し心から感謝した。

 ❽ すばらしき大空よ

 飛行日誌と記録は全くないが、大空の素晴らしさ、上空からの所感など21歳の目から見た「大空の魅力」を綴った青春の記録だけが手元に残されている。これだけを残したところを見るとよほど愛着があったに違いない。後ほど触れることにしたい。

  

2.北野和夫操縦教官との思い出

❶ わが師として誇りにした北野教官

   私の担当操縦教官は北野和夫3尉であった。温厚な人柄で熱心に教えてもらった。特に、怒鳴られたたり、罵倒されたりすることもなかった。

    教え子と言うことで自宅にもしばしば招待していただいて食事をごちそうになったりした。これほどの教官に恵まれ、最高の教官はいなかったのではなかろうか。

    後年、私が自衛隊における教育訓練に特別の思いをもって教官職に就いたのも、その根底には北野教官の存在・感化があったように感じている。

 君を立派なジェットパイロットにしてみせる

    当時のアルバムの写真の下に「パイロットへの第一歩は北野教官によってはじめられた。よく可愛がってくれ飛行機への愛着を一段と高めてくれた人であり、立派な師であった。最初、教官と顔を合わせたとき、〘浜田君、君を俺は立派なジェットパイロットにしてみせる〙と話してくれた。」と記されている。

❸ わが教官はナンバーワン 

    また、写真の裏側には、「北野教官夫妻は、新婚早々で高橋君と遊びに行って可愛がってもらった。北野教官の得意中の得意は当校きってのLandingのナンバ-ワンであったことだ。教官の教え子は必ず一番になるという伝説があるほど」と記されていた。それほど学生間で北野教官の評判が高かったのであろう。

 北野教官には、それこそ手を取って操縦を教えていただいたが、残念ながら私の操縦適性面から学生免となり、その後再びお会いする機会がなかった。後年、せめてお礼の挨拶をしたかったがその機会に恵まれず今日に至った。今風のテレビの「会いたい人」である。

3. そっと手を添えよ

 ❶  いつの日か恩返ししたい

   立派な教官の元で教わりながら、操縦面では落第生であり、申し訳なかった。教官の期待に応えることができなかったが、「いつの日か恩返しができるようになりたい」と決意し、新しい道を切り開いて進むことができた。35年余の自衛官人生の始まりのころであった。

❷  そっと手を添えよ

    初級操縦訓練での数々の体得がその後の私の自衛官人生において役立ち花開き実を結ぶ日がやってきた。その一つを紹介すると、

     最初に操縦桿を握ったとき、目線が計器に行ってしまい、水平飛行で上下が激しかった。遥か遠くの水平線等に合わせると飛行の姿勢を示す計器が水平にピタリと動かなくなる。そのコツを覚えれば簡単なことであった。

    初回は緊張して、操縦桿をしっかりと握ったために上下に動いた。修正のための修正を繰り返すことになる。心持ち手を添えるだけで飛行機は水平に飛んだ。

    自動車のハンドルの遊びと同じでわずかに修正すれば足りる。こうしたコツを一つづ体得していった。

    要するに、全体を見ながら、一点集中ににならないこと、本来の飛行機はまっすぐに飛び、復元するように作られていること、など体験したことは、後年、私の人生に多いに役立ってきた。

 後年、後継者の教育に当たっては、学科理論のほかに、自分が実務で体得した秘伝の「コツ」を積極的に教えることにした。その原点は北野和夫操縦教官の教え方にあった。

  

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 《 操縦訓練開始、飛行服に身を固めた。身が引き締まった。 》  

 

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《 p-18操縦課程の第1期操縦学生8名、その後、同期の桜も4名が操縦免となってそれぞれが新しい道を切り開いていった。 》 

 

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《 T-34練習機 》

 

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《 小月基地における飛行訓練の一コマ、1機2機と下関上空に飛び立つ、大空への夢を果たそうと真剣な一日一日を送った。忘れ難い充実した青春の時代であった。》

 

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《 飛行前点検も一人で行い、フォ-ムへの記入するわが飛行服姿、後は教官の同乗を待つばかり、真剣に飛行訓練に励んむ毎日であった。 》

 

 

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《 今から57年前のことだった。よみがえるよい思い出だ。優しくしていただいた北野和夫教官夫妻、自宅に呼んでいただいたりして奥様手作りの料理をごちそうになった。終生忘れられない教官夫妻であった。期待に沿えず操縦免となり、操縦学校を去って以来、お会いしたことがない。 》

 

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 《 T-34航空事故による残骸、搭乗の同期生は幸運にも無傷で、後年、民間航空の国際線機長として大成し活躍した。 》