1.未経験者英語操縦課程(p-16要員)の卒業
❶ 遅まきながら英語卒業
第1期操縦学生として、浜松基地・英語教育隊において、昭和31年4月から英語を学ぶこと6カ月、同年9月25日に「未経験者英語操縦課程」を卒業し、「第16期地上準備課程」(p-16)学生として、第1操縦学校に入校を命じられた。
第1期操縦学生の第1陣はp-11から始まっており、同期生間でかなり差がついた。どちらかというと、英会話は得意な方ではなく、卒業も遅い方であった。ある面ではじっくり基礎を学習することができて、後年それが役立つことになった。
長い人生から見たら、早い遅いはあまり関係ないが、若い青春時代だけに同期に後れを取ったような気がしたものだ。
❷ パイロットの急速大量養成時代
英語教育隊には、続々と英語を学ぶため各種要員がやってきた。全体の操縦者養成の受け入れ態勢に合わせて、毎月、英語の最終試験を行いながら一定の人数が第1操縦学校の操縦コースに入った。
当時、操縦コースは、操縦学生だけではなく、部外幹候等が次から次へと操縦準備課程に進み、操縦課程は更に再編成されて操縦者の大量養成の時代が進んだ。卒業記念写真を見ると、私と一緒に卒業した第1期操縦学生は8名であった。
2.小月基地における第1操縦学校
❶ 歴史のある小月航空基地
昭和31年9月30日付で、山口県の小月基地に所在する第1操縦学校へ所属となった。こじんまりとした落ち着いた雰囲気の基地との第一印象であった。
現在は海上自衛隊の航空基地、しかも海自の「航空学生」養成の基地となっている。航空自衛隊の基地として運用されたのは、昭和31年4月から39年7月まである。振り返って、歴史の古い基地で訓練に励んだことを誇りにしている。
❷ 地上準備・飛行訓練
第1操縦学校では、まず、飛行前の地上準備教育を受けて、いよいよ飛行訓練に入ることになった。大空への夢が一歩近づいた。訓練は地上準備課程2ケ月、次いで飛行訓練期間及び飛行時間は4ケ月・80時間であった。ソロに出た後は飛行訓練は分校の防府北基地に移り飛行訓練をしていた。
❸ 恵まれた隊内の生活環境
操縦者を養成するための操縦学校であり、昭和31年当時としては恵まれた環境にあった。古い学生舎であったが個室であり、大部屋で起居したてきただけにびっくりした。外出は下関方面に気の合ったものと出かけた。
*参照 海上自衛隊小月航空基地ホ-ムぺ-ジから抜粋
年 |
月 |
出 来 事 |
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12 |
6 |
逓信省 「下関飛行場」着工 |
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15 |
3 |
逓信省所管「下関飛行場」竣工 |
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15 |
4 |
陸軍に移管、「下関陸軍飛行場」と改称 福岡県大刀洗から飛行第四戦隊(九七式戦闘機)が移駐 関門・北九州の防空の任務につく。 |
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16 |
春頃 |
「小月飛行場」と呼称されるようになった。 |
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17 |
4 |
九七式戦闘機に替わり、二式複座戦闘機(屠竜)の配備が開始される。 |
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17 |
10 |
第19飛行団司令部を配置 |
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19 |
6 |
B29の北九州初の空襲があり、二式複戦が小月から出撃 以後、B29の迎撃に活躍し、大きな戦果を挙げた。 打ち合わせ中の飛行第四戦隊 |
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19 |
7 |
第19飛行団司令部が第12飛行団司令部に昇格 |
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23 |
4 |
戦後ニュージーランド軍及び米軍による駐留 |
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25 |
3 |
米軍、小月飛行場の接収を解除 |
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25 |
9 |
警察予備隊小月訓練所開設(5個中隊約千人)
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25 |
12 |
部隊は第四管区隊第十一普通科連隊と改められる。 |
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27 |
10 |
警察予備隊小月訓練所を保安隊小月駐屯地に改称 |
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29 |
7 |
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31 |
4 |
航空自衛隊へ移管、第1操縦学校が開校 |
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34 |
6 |
航空自衛隊第11飛行教育団が発足 |
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39 |
7 |
海上自衛隊へ移管(小月派遣隊) |
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40 |
3 |
小月教育航空群新編 第201教育航空隊が鹿屋から移動 |
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41 |
3 |
水中脱出訓練装置完成 |
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43 |
11 |
第221教育航空隊が館山から編入 |
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12 |
幹部隊舎、第1総合講堂完成 短艇用ダビット完成 |
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45 |
10 |
航空学生制服の改革(7つボタン制服) |
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12 |
幹部航空基礎課程教育開始(幹候20期) |
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46 |
3 |
屋外プール完成 |
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4 |
海上保安庁学生受託教育開始 |
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10 |
ファンシードリル初公開(航学23期) |
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47 |
1 |
第2総合講堂完成 |
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48 |
3 |
第221教育航空隊庁舎、隊舎及び屋外訓練場完成 |
(以下省略)
2. 地上準備教育
昭和31年10月から同年11月末まで「第16期地上準備課程学生」を命ぜられ、飛行訓練前の地上準備教育を2ケ月受けた。
《 浜松基地における英語教育隊・「未経験者操縦英語課程p-16要員」卒業記念写真である。前2列阿部隊長以下教官陣、3列目第5期幹部候補生(部外)等、最後列は右1名第5期幹部候補生(部外)を除き、第1期操縦学生8名、p-16要員はそのまま小月における操縦課程に進み、「第16期地上準備課程学生」となった。次の初級操縦課程等で同期生8名の内4名が操縦免となる。幹部候補生(部外)の中には、後年、第19代航空幕僚長になられた米川忠吉空将(3列左3番目)のほか将官に栄進された方々がおられた。創設期の出来事であった。 》
《 昭和31年小月基地第1操縦学校へ入校、21歳 》
《 小月基地・第1操縦学校では、学生隊舎は古かったが、個室であった。ベットと机、簡素なロッカーであつたが生活・教育の環境は整っていた。落ち着いた基地であった印象が今でも残っている。》
《 第16期地上準備課程は、大部分の教育は第5期一般幹部候補生(部外)等と一緒に授業を受けた。第1操縦学生組8名はいつも最前列の机に並んだ。 》
《 昭和31年11月第1操縦学校開校記念日 防衛庁長官を迎えて操縦学生隊観閲を受ける。 》