昭和の航空自衛隊の思い出( 31) 浜松基地における英語教育

1.  初めての 浜松基地

     昭和31年3月24日、防府基地所在の航空自衛隊幹部候補生学校における第1期操縦学生として、187名が「操縦学生基本課程」を終了し、同年3月31日付で浜松基地に所在する臨時英語教育隊所属となり、「操縦未経験者英語課程学生」として英語を学ぶこととなった。同年9月には編成改編が行われ、英語教育隊となった。

 当時は、現在のように浜松基地内は整備されていなかった。逐次整備途上にあった。建物は比較的新しいように見えたが、端末の教場の辺りは、雨が降ると泥濘、泥んこの中を靴で歩いたのが強烈な印象として残っている。

 航空自衛隊の創設期だけに、1期生187名が大挙して浜松基地にやってきたため、英語教育隊の居室となった1号館3階の大部屋は3段ベッドでも満杯であった。上段の連中は寝ぼけて下に落ちたりしないかと心配されるほど生活・起居環境は厳しかった。(昭和30年代初期の浜松基地は整備学校,通信学校とも学生があふれ,航空自衛隊の各種要員の大量・急速養成・増勢の時代であった。ベッド事情はいずこも大差なかった。).

 

2.英語教育   

  日本における航空管制は英語であり、あらゆる面で米空軍から技術を習得するためには英語能力が必須であった。そのため操縦・通信・米留等の要員は、英語教育隊の英語課程を修了する必要があった。

 明けても暮れても英語・英語三昧の生活で、聞く・話す・読む・書く授業の連続であったが、当時日本で最先端をいくブ-スでイヤホ-ンを付け学習に励んだ。(本当は恵まれた環境であったのだ。)

 一定のレベルに達した者は、毎月、英語試験があり、パスすると操縦課程へ進むことができた。1期生の第一陣は割合早く卒業していった。

 経験者課程の旧陸海軍のパイロットを含め英語に弱いものはここで足踏みをさせられた。次の操縦課程も詰まっており、逐次、操縦要員を送り込んでいく調整弁の役割を果たしている面もあったように感じたことを記憶している。

 私は第一陣からすると遅かった。5ケ月英語教育を受けた後、同年9月25日付で卒業し、「地上準備課程学生」として、山口県の小月基地に所在する第1操縦学校へ入校することになった。

 

 3.   阿部善次隊長は真珠湾攻撃隊の勇士

    英語教育隊の隊長は阿部善次1佐であった。隊長は海軍兵学校64期で、温厚な方であった。自ら真珠湾攻撃について学生に語られたかどうかは全く記憶がない。

    新聞訃報欄で心不全でご逝去されたと報ぜられた。享年90歳、日米開戦の真珠湾攻撃で、空母「赤城」爆撃機隊の分隊長を務めた。戦後は、現地を訪れ、生き残りの米国の元軍人らと友好を深めたと伝えられている。

     当時、学生の立場からは、操縦者の歴戦の勇士が隊長で尊敬のまなこで遠くから見つめていたように記憶している。

    そう言えば、昭和の30年代は大東亜戦争史に登場する指揮官、参謀,歴戦の強者と直接お話しする機会はなくても身じかに姿を拝することができた時代であった。

    後年、中警団司令部副官時代は、団司令のお客様として職務上、旧陸海軍の高位高官の方々の接遇をする機会を与えられた。

  

4.  最先端をいく英語教育設備

   英語教育隊における英語教育は、教官の主力は航空自衛官で,卒業試験時には米国人も加わっていたように記憶している。英語教育の環境は当時の日本の状況からは最高であった。

    今では、視聴覚教育施設は完備し高いレベルにあるが、当時アメリカの最新の視聴覚装置が英語教育隊に取り入れられており、最先端をいく「ブース」をよく部外の関係者が連日押し寄せて見学していた。

    教室には、数十台 のブースが配置され、インターホンが付いており教官と学生のやり取りができた。

 

5.   英語卒業試験

    英語教育隊の卒業試験は、試験官がずらりと並ぶ前に一人座り、質問、受け答えは勿論英語て行われた。質問に対して回答・説明を行い、合格した者から、次々とグル-プごとに次の第1操縦学校へ送り込まれた。

    操縦経験者組の旧軍パイロット組の先輩の中には英語の難関が突破できず、何回も何回も卒業試験に挑戦する姿を見つめてきた。

  

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 《 浜松基地1号館(現第1航空団司令部)3階が居室となった。》

  

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 《 昭和31年5月、ブ-スル-ムにて英語勉強中、当時日本では珍しい視聴覚機材が取り入れられ英語教育を受けた。多くの部外の見学者が訪れていたのを覚えている。》

 

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 《 英語教育隊における佐久間ダムの研修、外へ出かける研修は息抜きにもなった。 》

 

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 《 佐久間ダム研修 》

 

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《 昭和31年9月 英語教育隊卒業を前に航空団司令部玄関で撮影、「いよいよ飛行機に近づく」と記している。》