昭和の航空自衛隊の思い出(25) 自衛隊定年と私

その時何を考え立ち向かったか      

    昭和の航空自衛隊の全体像を私ごときが語ることなど毛頭考えてもいないし、出来ることではない。
    大組織にあって、一隊員の勤務経験などたかがしれているが、私が歩んだ足跡を基軸に自衛官人生を綴ることはできる。
    その主点は昭和の航空自衛隊に勤務した当時を回想し、自衛官の勤務経験と生活を軸に、どのように勤務し、どんな問題と取り組み、何を考え、行動したか。どんなことに悩み、立ち向かったかなどを「昭和の航空自衛隊の思い出」として綴っている。
    自衛隊定年と私」は、今から25・6年前の航空自衛隊の定年退官(平成2年4月が近づいたころに記した所感である。

     平成2年4月、満55歳で航空自衛隊を定年退職した。退職に当たっては、1年ほど前に退職準備のための生活設計、年金・資産管理、再就職の心構え・選択等を中心とした管理講習を受講した。

    自衛隊の定年は、いわゆる.「若年定年」と言われる如く、自衛隊任務と精強性の確保等から世間一般より早く定年年齢が定められ、階級によって異なっている。

 今日は当時より自衛隊組織・装備品等の高度化・複雑化、人的資源の活用、平均寿命・少子高齢化国民意識・生活環境の変化等様々な要因から定年年齢は若干伸びたとはいえ、一般より早期に退職することに変わりなく、再就職をせざるを得ない宿命にある。

 定年前の講習受講を機に、人生の再出発に当たり、いろいろなテ-マでまとめた所感が残っていた。

    当時、自分の定年をどのように考えていたのか、次なる人生をどう描いていたのかと、25年後の今日読み返してみると感慨深いものがある。

 定年退職の再就職は、自動車保険料率算定会調査事務所(現損害保険料率算出機構自賠責調査事務所)の採用試験を受験し入所した。

    自算会では、存分に働くことができたし、OB団体の隊友会の役員もやり、地域の自治会長等もこなした。趣味も水泳・山登り・カラオケと等と過ごすしてきた。「欲張りすぎたかなぁ」と思う点もあるが概ね自分の描いたものになった。

 しかし、それ以降は、歳を重ねるにつれ、健康を含めて諸々のことが自衛隊定年退職前のように人生設計を描けなくなった。

    今は「がんとの闘い」であり、「生かされた命」となった。現役時代のような新たな決意など認めることもないが、静かに過ごす日々の生活の中で、今までやれなかったことをやれるだけやってみたいと「心豊かに生きる」ことを楽しんでいる。

 

自衛隊定年と私」

 数年前までは考えもしなかった定年が平成2年5月やってくる。定年をそれなりに先輩の姿から見つめてきたが、わが身がその時期を迎えるとなると他人事ではなく膚にひしひしと感じるものがある。

1.自衛隊生活への満足感と感謝の心

 高校卒業後、第一期操縦学生として航空自衛隊の創設に参加し共に歩んだ。志ざし中途にして操縦適性面から新しい分野へ転身することとなったが、部内幹候、指幕僚揮課程への合格入校、要撃管制、総務人事職域への転進等波乱に満ちた34年に及ぶ自衛隊生活において仕事に恵まれ、生き甲斐・働き甲斐を十二分にもてたこと、よき上司・同僚及び部下に支えられ一緒に目標に向かって仕事ができたこと、2士から1佐まで昇任させていただいたこと等自衛隊に対し永年の勤務ができる満足感と感謝の心でいっぱいである。

 国家防衛にご奉公できたことは最高の誇りである。自己の人生の主活動期に満足感と感謝の念をもって全う出来ることは、次なる人生への再出発の原動力となるであろう。

2.豊かな熟年時代への始まり

 定年後の生活は、次なる人生への出発である。55歳から10年間を一応の目標とするが、熟年の言葉どおり、社会への貢献、家族との安定、趣味等を加えた実りある人生の始まりである。

 自衛隊生活は、仕事一筋に生きた時代であったが、再就職は基本的に自衛隊勤務の延長上にあると考え、全く違った仕事への挑戦等人生を更に豊かにする熟年時代の始まりとしたい。

 このため、次の点について努力したい。

❶ 新しい仕事を通じて国家・社会に貢献したい。

❷ 新しい職場で会社の企業目的達成に努力し、働き甲斐を全うする。

❸ 地域社会における活動に参加し、幅を広げる。

❹ 家庭を大切にし、充実安定した生活を確立する。

❺ 趣味を拡大し、健康管理に努め豊かな人生の基盤を作る。 

 

 

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 《 自衛隊生活の最終段階が近づいた5年前に航空幕僚監部勤務となり、部内出身幹部として最も栄職である最高の部署に補職された。航空自衛隊3万5千名の准尉・空曹・空士の人事管理を担当する空幕人事課人事第2班長配置であった。長年温めてきた准尉・空曹・空士の諸問題の解決と空曹長等の地位の向上への取り組みであった。全力投球した。あらゆる機会を利用して現場に出向き、第一線で勤務している諸官の声なき声を施策に反映するよう努めた。新任空曹長教育に講師として出かけた時の講演の写真。講堂がいっぱいで、空曹長に昇任し、やる気満々の部隊の屋台骨となる空曹長に指揮官と隊員は何を期待しているかを熱く語ったことが思い出される。》 

 

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 《 現職時代 》

 

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《 平成2年3月、退官パ-ティにおける謝辞、東京は由緒ある明治記念館において退官パ-ティを催していただき夫婦して感激の極みであった。那須空幕人事教育部長及び同近藤調査部長の将官、新谷調査隊司令ほか苦楽を共にした同僚・部下など多数の皆様が退官を祝ってくださった。また全国各地から祝電等多数をいただいた。明治記念館本館は、明治14年当時皇居だった赤坂御所の別館として建てられたもので、明治天皇ご臨席のもとに明治憲法制定会議がたびたび開かれたことに由来し「憲法記念館」とも呼ばれた。》

 

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 《 昭和32~34年、整備学校(現1術校)で同じ内務班で苦楽を共にした内野英昭君は三沢基地から元内務班長(2曹)の私に祝電をくれた。いつの時代も兄貴分として立ててくれた。部内幹部として2佐に昇進し、熱血の教育幹部としてその名をはせた人物であった。惜しくも先年逝去された。東京のお別れ会に参加したが、元空幕長他多数の皆様がその業績をたたえた。 》