昭和の航空自衛隊の思い出(13)  自衛隊勤務の大黒柱となった「誇りと気概」 

3.   新しいことへ挑戦する勇気と気概

(続き)

     部内出身幹部・CSに学んだ人事幕僚として、終生一番の誇りと気概にしたものは、 「准尉・空曹・空士の諸問題の解決に向けた取組み」ができたことである。

 世界のいずこの軍隊においても、構成員たる将校と下士官・兵の役割は概ね共通している。 戦後よく言われたことは、「日本の軍隊の下士官は世界で最も優れていた」ということであった。戦後の陸海空の3自衛隊の曹(下士官)も然りである。

    昭和の時代も、航空自衛隊ナイキの年次射撃等の抜群の成績に見られるとおり、近時は海外に派遣れた国際貢献の部隊に対する評価の如く、日本人の国民性・高い意識・資質能力・技量たるや列国の軍隊を凌駕するほど高いレベルにある。

 部隊人的戦力の主力をなすものは曹であり、航空自衛隊における准尉・空曹・空士の人事管理と諸問題の解決に向けた取り組みができたことはやり甲斐のある仕事であり、最高の名誉であった。 

 念願の課題の取り組みについては、自分なりの策案を抱いており、CS終了後、各級の司令部勤務を経て、西部航空警戒管制団司令部人事部長を命ぜられた。

    離島のレ-ダ-サイトを隷下にもつ司令部において人事・訓練・厚生業務を担当することとなった。警戒管制部隊は、初級幹部・要撃管制幹部として部隊経験したところであり、離島勤務者の人事管理と勤務環境の諸問題の解決、武道大会の振興に全力を傾注した。

 その後、航空幕僚監部人事課人事第2班長を拝命し、航空自衛隊全般の准尉・空曹・空士の人事を担当することになった。このポストは部内出身幹部としては最もやり甲斐のある配置であった。

 特に、青年幹部時代、真剣に取り組んで考えた、主要国軍隊における下士官・兵の人事管理に劣らぬ、将来の「航空自衛隊における准尉・空曹・空士」の地位の向上・位置付け・人事管理や離島サイトにおける勤務者の人事管理・処遇改善等について、取り組めたことは終生忘れ得ない思い出である。

 これもまた、CSで一年間学ぶことができたおかげであった。「人生とは不思議なものだ。」と思う。

 

4.   後継者を育成する使命と気概

❶ 後継者育成の原点

    操縦学生免となり,人生初の挫折と苦悩を味わいながら,最初の赴任地浜松で自衛官としての新天地と活路を見出だすことができた。

    そのきっかけは、時の流れと上司・先輩の指導にあった。創設期ですべてを作り上げる時代であったとはいえ、実に「人を育てる」恵まれた環境と運命的な出会いがあった。

    創設期の航空自衛隊は、青二才の若輩者といえども、経験や序列に関係なく、新しい課題を次から次と与え鍛えられた。短期間に多くのことを経験し学ぶことができた。

    浜松は「航空自衛隊の発祥の地」・「教育のメッカ」といわれる如く、自分にとって「新たなる再出発の地であり、誇りと気概が生まれた母なる地」であった。

 空士長の階級から2曹に昇任するまで「育ててもらった」と心の底から感謝し、将来その時が来れば、自分がしてもらったように「人を育てる」ことに着意して「恩返し」をしようと誓った。

     このように創設期の職場には、人格識見に優れた「神様的な存在」の先任空曹・1曹が多く存在し、「あの先任のようになりたい」と思った。これが後継者育成を志した原点であつた。

 

❷   職場の日常業務で後継者育成

 総じて総務人事の幕僚組織はどちらかというと少人数である。隊・群レベルの指揮官職のように大勢の隊員を束ねる配置とは異なったが、私の心底には常に指揮官との関係では幕僚であるが、部下との関係は指揮官・管理者・教育者であるとの考えを堅持した。

 常に、部下隊員の一人一人を優秀な後継者に育てるという信念で臨んだので、平素の業務の処理に当たっては、持てる能力を引き出すことに着意し、どちらかというと職務に関してはあえて厳しい上司という立場を取った。

    部下隊員の個々の個性と将来志向を見極めて、進路の自己選択、目標の設定、実力の養成と自信を付けることに努めた。

    私が受けた育成法に私流のやり方を加えて担当業務を通じて成果を確実に上げ、その業績は担当者とチームのものとした。

     多くが、部内幹部に昇進し羽ばたいて行った。また、一方、部隊にとってなくてはならぬその道のベテランたる准尉・空曹として戦力の主体を成した。

 自衛隊在任間、業務の実施に当たっては方針と自分の考えているところの腹案を示し、細かいところはすべてベテランの准尉・空曹担当者に任せて作業してもらうことが多かった。

    これは過去の自分の経験から学んだことで、「空曹」は実務能力に優れており必ずやり遂げると信頼した。数量的な積み上げは一切任せて、適宜、方針に合ったものになっているかどうかを点検確認して修正指示すれば、分厚い諸計画もスムーズにまとめることができた。

     私にとっては,部下というより一緒に仕事をした(する)「仲間」「戦友」と云った方がぴったりであった。

 

❸ 教育の場で職域の後継者育成

 人事総務職域の幹部・空曹・空士の育成を担当する教育担当科長は 若いころからの夢であった。

     後年、要撃管制幹部から人事・総務幹部ヘ転身し、指揮幕僚課程を終えて、各級司令部において人事幕僚経験を積み、母校の第3術科学校の教育科長として、人事総務・上級空曹要務・教育技術の各課程の教育責任者になった。

   各級の部隊経験から描いた夢「総務人事はかくあるべし・かくあるべきとの考え」を抱きながら、機会あるたびに教育配置に就きたいと希望してきた。まさか教官配置につけるとは思いもしなかった。

 それこそ人を育てる配置に就けた時の喜びはひとしおであった。あらかじめ教案要旨を作成し、機会を見つけては多くの後輩に、私が部隊で培った指揮官の補佐、運用と一体となった人事のあり方、業務処理について精魂を込めて教育の場で伝承し、話しかけた。

 話したことはすぐに要旨を印刷配付した。多くの教え子が全国各地の部隊・機関で人事担当者として活躍し、退官するまで至る所で役立っていますとうれしい便りをもらうことがあった。 

    以上、自分の自衛隊勤務を振り返って見て、心の大黒柱となったものは、「第1期操縦学生の誇りと闘志」「部内幹候出身者・CSに学んだ誇りと気概」「新しいことに挑戦する勇気と気概」「後継者を育成する使命と気概」の四つをあげた。私の心の中に残っているものを整理してみた結果である。

 部内出身幹部として末席の一幕僚の分際で、特別に大きな功績を上げたわけではない。ましてや昭和の航空自衛隊のこと、私の足跡などたいしたことはない。

    人生とは己の心の遍歴でもある。いつしか生涯を終えるときすべては消え去っていくものであろう。それが人の一生というものではなかろうか。

 

f:id:y_hamada:20140822080950j:plain

《 浜松基地所在の飛行教育集団司令部人事部で名部長小澤重信1佐のもと人事第1班長(2佐)として自衛官人事を担当した。思いきり仕事をさせてもらった時代である。福岡県芦屋町にある母校第3術科学校の総務人事・教育技術・要務を担当する教育科長へ転任するにあたって、苦楽を共にした班員斎藤衛1尉(松雲)が贈ってくれた色紙、濵田喜己に合わせたもので今も我が家に掲げられている。 》

 

f:id:y_hamada:20140822084311j:plain

《 仕事は厳しく、終われば楽しくと一泊旅行等家族的な人事部であった。私の主導で左の班員の斎藤1尉、鈴木嬢と一緒にドジョウすくいをやったりした。五円玉を黒くして片側の鼻につけ、座布団を丸めて背中にいれて、みんなで笑い転げた。》

 

f:id:y_hamada:20140822094656j:plain

《 飛行教育団司令部人事部の宴会のしめは、小澤重信部長を中心にスクラム組み歌を唄った。こんな調子で仕事はみんなよくやった。》

 

f:id:y_hamada:20140822094501j:plain

《 教育現場では、後輩の育成に専念した。学生には厳と暖で接した。毎期全学生に教官から見た句でつづる教育成果の評定を記念に贈った。一方、学生からの評価も受けた。その一端である。科長に対する句を読むと当時の学生の顔が浮かぶ。人事業務の学習に励み日々成長するのが楽しみで休憩時間によく顔を出した。教官陣に対する学生の句は〇印である。術科教育とはそんなものだ。実務についてその有難さと真価がわかってくる。◎印は私が教官陣に贈ったもの、4科に対して学校長からその功績を認められ賞状を頂いた。》