昭和の航空自衛隊の思い出(11) 私の歩んだ自衛官人生

1.  その時何を考え立ち向かったか      
    昭和の航空自衛隊の全体像を私ごときが語ることなど毛頭考えてもいないし、出来ることではない。
    大組織にあって、一隊員の勤務経験などたかがしれているが、私が歩んだ足跡を基軸に自衛官人生を綴ることはできる。
    その主点は昭和の航空自衛隊に勤務した当時を回想し、自衛官の勤務経験と生活を軸に、どのように勤務し、どんな問題と取り組み、何を考え、行動したかなどを「昭和の航空自衛隊の思い出」として綴ってきた。今後も続けていきたい。
    創設期・建設期の自衛隊の勤務は、出来上がった道を歩むのではなく、未知の新しいものを創る・歩む毎日であつた。   
    自分の自衛官生活を振り返っててみると、創設期の体験、環境等がその後の自衛官人生に大きな影響を与えたように思う。
 
2.  出発点で希望の星から転落、挫折の人生を味わった
    航空自衛隊が創設されて、戦後初のバイロットとして第1期操縦学生試験に応募、34倍の競争を突破して、大空に羽ばたく夢を抱いて希望に燃えて入隊した。
    厳しい教育訓練を経て初級操縦訓練課程に進むも、多数の同期と一緒に操縦面で操縦学生免となった。1期生の操縦課程における淘汰率は実に40パーセントに及んだ。いかに過酷な試練であったかを物語る。(操縦学生基本課程修了者187名、ウイングマ-ク取得者90名)
   その背景には、今では想像もつかない、創設期のゼロから作り上げていく過程における様々な事柄の発生と時代に翻弄されたとも言える面があった。
    操縦者の米軍方式の養成と選別、飛行隊数の計画激減、 操縦学生の身分取り扱い等人事教育制度の未整備等が重なり、第1期操縦学生はその狭間で逞しく時代を生きた。
     その後、操縦学生制度が改善確立されて、現在の安定した「航空学生制度」となって行ったのである。どんな場合でも創設の時は制度等いろいろな面で不備な面があるが、問題点が浮き彫りになって改善され充実したものになっていくものだ。
  「操縦学生」の肩書きがとれて、一般隊員となり、ただの空士長となって別の道をやり直す岐路に立たされ、大空の夢敗れる人生初の挫折を味わった。
    同じように、多くの同期が逐次、操縦課程を進んだ者でも途中、エリミネートになると「飛行幹部候補生」の肩書きが外されその時の階級で一般部隊に出されたものであった。
    時あたかも創設期の航空自衛隊は建設増勢の時代であり、若い柔軟な人材を求めていた。どの職域・職場でも能力とやる気さえあれば伸びる天地が用意されていた。
    まさに文字どおり「人生至る所に青山あり」である。時代は捨てる神あれば拾う神ありで、新しい世界で羽ばたくことになった。
    私にとって、人生初の挫折は、逆にバネもなって、密かに胸の中に「何くそ、いつの日か同期と同じくらいになりたい」と何者にも負けない不撓不屈の粘り強さを持つようになった。
 
3.  空曹が幹部並の役割をした創設期を体験した
    ヒヨコの 空士長で現場に配置されてからは、心に秘めた目標に向かって、現場で黙々と精進しているうちに、昇任試験を受けながら空曹に昇任して行った。
    何でも貪欲に吸収出来るものは吸収していった。若者には毎日が学ぶことばかりであった。とんなことでもやらせてもらった。そこには優秀な空曹がおり、鍛えてくれた。
    創設期の航空自衛隊には、幹部が少ないため2等空曹といえども、今で言えば尉官が担当するような計画立案など能力錬成の機会を与えられた。
     先任空曹に至っては、課長の補佐役として、課長・班長の幹部を凌駕する程の実力と人格識見に優れ、「あの様な先任になりたい」と憧れた。自衛隊における幹部と空曹の関係、部隊活動のあり方などを学んだ。
    創設期は、なすこと全て新しいことへの挑戦であり、やる気さえあれば経験の有無に関わらず取り組む機会を与えられた。
    未熟な空曹の分際でありながら、現在の出来上がった部隊組織においては考えられないほどの経験をしたことが、航空自衛隊における空曹の資質能力の発揮・向上・活用・活動の場の拡大は、将来、部隊の精強化に必要不可欠であることを信念とするまでに至った。
 
4.  若い時期に荒武者組の内務班長を経験した
   3曹の早い時期からつわどもが集まった十数名の内務班の副班長・班長を命ぜられ、隊員の父親母親役をやることとなり、小型の指導者・指揮官・統率者のあるべき姿を思索し、実践し自分なりの考えを確立することができた。
   特に、航空自衛隊における空曹空士の位置付け、処遇及び活用、内務班の運営と活用などを学び体得した。   
 そのことにより、空曹の地位の向上、とりわけ先任空曹の位置づけ、活動などのあるべき姿を描きいつの日か実現できたらと胸に秘めた。    
    後年、この時代に培った夢と体験が生かされる時がやってきた。
 
5. 部内幹部候補生試験への挑戦し飛行同期に次いだ
    かって一緒に肩を並べて学び切磋琢磨した同期が飛行幹部候補生として着々と夢を実現し大空で活躍する様子を横目で見ながら頑張っている内に、一般幹部候補生(部内)選抜試験を受験する資格が出来た。
    初挑戦したところ、幸運にも初回で合格し、奈良の幹部候補生学校に入校し一般幹部候補生(部内)課程を修学することになった。
    人生とは奇なもの、課程は異なったが飛行幹部候補生課程に学ぶ同期とほぼ同じ時期に相間見えることになった。
   神代の 創設期だから偶然生じたことではあるが、中には前期の部内幹候試験合格したが、飛行の同期より早く幹部候補生課程に入校する事例が生じ、待たされた者もいた。
    こうしてエリミィネイト(操縦免)された1期生組の第1陣8名は幹部候補生学校の門をくぐった。私もその一人となった。
    大空への夢は破れたが、このように創設期の航空自衛隊には、若い人材が求められ何処にでも活躍出来る場所があり、失敗や挫折を挽回するチャンスがあった。いい時代にめぐりあわせたのである。 その上運がよかつた。
  
5.初級幹部として同僚と切磋琢磨、上司・部下に恵まれた
    「上司・部下について語る」ときは、正直なところどなたにも公私ともにお世話になり、昔風に言えば「足を向けて寝られない」存在であった。上司・部下はいずれも個性豊かで終生忘れ難き方々であった。
 直属の上司は厳しく鍛え、育ててくれた。同僚とはお互いに競い合ったり、切磋琢磨し助け合った。部下は本当に手足となって働いてくれ助けてもらった。部下という上下の関係より「一緒に仕事をした仲間」といった方がぴったりだ。
 人事分野に転進してからは、仕事柄、少人数のグル-プであり、人間関係は緊密となった。自ずとお互いの性格・気質・能力等を熟知することになる。職場は替っても同じ職域であり、横の関係で大体のことは分かっており、一層良好な関係築くことができた。当時、人事部門は少数精鋭で幹部・准尉・空曹が一体となって、人事業務をこなしており、どの職場よりも一番遅くまで仕事をしていたというのが実感であった。
 同僚については、初級幹部・部内出身幹部・要撃管制幹部として第一線の現場で切磋琢磨して、日夜戦技・戦法の修練に努めた。
    創設期にあって、米空軍から移管されたレーダー基地は、わが国の防空は自分達の手でやり遂げようと意気に燃えていた。まだまだ手動の時代であり、若手の要撃管制官が要撃戦技の日本一を目指して「天狗・子天狗」を競い合った。防衛区域ごとに西部・中部・北部の要撃管制の達人・神様的存在の人がいて、その名声は全国に響き渡っていた。私も彼らを羨望の眼で眺め、24時間の厳しい交代制勤務の傍ら同僚と一緒になって真剣に技量の向上に努め子天狗を目指した。