浜ちゃん日記  大東亜戦争と終戦記念日

1.  終戦の日の式典

   一 昨日8月15日は68回目となる「終戦の日」であつた。政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で行われた。天皇、皇后両陛下のご臨席のもと、総理大臣、衆参両議院議長、最高裁長官及び全国の遺族の代表が参列し挙行された様子はテレビで視聴した。

   安倍晋三首相の式辞の後、正午に参列者全員が黙祷を始めると同時に家で黙祷をした。

    例年であれば、浜松市戦没者追悼祈念式典に参列し、隊友会の一員として会場の支援等に参加しているところであるが、今回は母の初盆・盆義理と菩提寺・洞雲寺において行われた寺施餓鬼のため欠席することとなった。かって地域の自治会長をしたときは町民を代表して式典に参列した。

    戦争の犠牲となられた方は、軍人・軍属約230万人と一般市民約80万人の計約310万人とのこと。戦場や戦禍に倒れ、あるいは戦後異郷の地で亡くなられた方々を偲び、静かに平和を祈念した。

    天皇陛下のお言葉、総理大臣始め各式辞の全文を読み直して見た。

    静かにその通り受け止めたら良いのに、自分の立場・主義・主張から余りにも騒々しい。それにしても国民が等しく誰はばかることなく、論評・意見を述べられるのだから、まさに「平和国家」「自由国家」と言えるのではなかろうか。

 

2.  大東亜戦争の記憶

    大東亜戦争は、昭和16年12月8日に始まり、20年8月15日日本が米国をはじめとする連合国の示した無条件降伏のポツダム宣言を受諾して終結した。

 開戦時のことは、小学入学前であったのであまり覚えていないが、戦時中のことは、当時の記録などに接するとよみがえってくる。

    鳥取県の小さな農魚村の集落で過ごし、村の出征兵士を村離れまで見送ったこと、食料増産、金属類の供出、防空訓練、灯火管制などはよく覚えている。

    戦争末期に、小学校校庭に陸軍の小部隊が駐在し、燃料となる松脂の採集、空襲に向かう大編隊の米軍機を慄きながら眺めたことがある。

    何よりも最も強烈に印象に残っていることは、広島の陸軍にいた長兄が市中を部隊行動中に原子爆弾を浴びて、背中全体が焼け痔れて、ある日忽然と家に帰ってきたことである。倉吉の病院で治療を受けて、しばらくして軍務に復帰して行った。兄から原爆投下後の様相を聞いた。

    終戦の日のことは、当時、小学校4年生(国民学校といっていた。)であり、昭和天皇の戦争終結を告げる玉音を家のラジオの下で家族、近所の人たちと一緒に聞いたのを覚えている。   

 当時ラジオはガ〜ガァ雑音が入って聞き取りにくかったように記憶している。当日は暑い日でラジオを聴いた後、姉と一緒に梨畑に行った。なぜ梨畑に出かけたのか、一度聞きたい思いながらそのままになっている。

 

3.   大東亜戦争の呼称

 「大東亜戦争」は開戦直後、日本政府が閣議で決めた名称である。大東亜共栄圏の樹立を目指すという日本人の世界観、戦争の大義であった。

    大東亜戦争をどう捉えるか、どのように見るかは、昨今の新聞等メディアがこれでもかこれでもかと言う位取り上げていた。 日本国民は等しく、戦争のない世界を望み、平和を求めている。これほど開かれた自由な国はないであろう。

    そして、日本が戦った戦争についての是非、評価については己れの主義・主張・歴史観によって異なってくる。世界で最も開かれた国だから当然であろう。

    一方、世界の普通の独立国家においては、自国の安全保障体制・国防・軍隊・軍人の位置付けといつた国家の基本に関しては、確固たる国民の共通意識・法制・軍事体制が確立されている。

    その点では自衛隊創立60周年にして、ようやく普通の国らしく基本事項が論議されようとしている。

 敗戦国になったとはいえ、時の政府が公布した名称「大東亜戦争」の呼び方一つでさえ、立場・主義・主張からさまざまだ。

    自国の歴史を曲げてまで、呼び方を変えて用いることはないと思っているので、私は若い時から大戦の是非、受け止め方等に関わわらず、史実のとおり「大東亜戦争」は「大東亜戦争」と呼んでいる。

   大東亜戦争で戦った米国をはじめとする連合国側はそれぞれの国の立場で大戦の正式な呼び方がある。当然のことであり、国ごとに異なってもなんら異を唱えることもない。 

    

4.   大東亜戦争

 毎年、8月になると、新聞テレビ等にはそれぞれの立場で大東亜戦争で散った人々を偲ぶ物語・特集が組まれている。いつの時代もお国のために命を捧げた人たちの語りは感涙する。

 しかし、新聞テレビ等だけでは、太平洋戦争が勃発した経緯・背景・経過を断片的に知るだけである。いくつもの大東亜戦争に関する史実を収録した著書・資料を読まなくては史実を知り、全体を理解することが難しくなっている。

    現職時代、特に昭和46年ごろ航空自衛隊幹部学校の指揮幕僚課程に学んだ折は、朝雲新聞社発行の「大東亜戦争業書」の大半を完読したことがある。(昭和41年(1966)〜昭和55年(1980)にかけて防衛研修所戦史室(現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)の編纂により刊行された公刊戦史である。A5版、各巻500〜600ページ、102巻)

     軍事に関する書物は、若い頃から購入し、読み、考えた。特に、大東亜戦争ついては、自衛官として真剣に研究・思索してきた。物事の本質を探求する態度を持ち続けたように思う。新聞の記事一つでも「紙背を読み取る」ことに努めてきた。

 航空自衛隊の創設旗・建設期を過ごし、若い時から世間の強い風当たりに鍛えられ、いばらの道を歩いてきたせいであろうか。

    今から見るとわが国を守る防衛任務を全うして退官した幸せな時代であった。