航空自衛隊第1期操縦学生(9)  部隊戦力の重鎮・実力者となったエリミネ-ト組

 この草稿は、10年ほど前に、第1期操縦学生出身で日本航空で国際線機長・査察パイロットとして活躍した同じ鳥取県倉吉東高校出身の同郷の徳田忠成君が「天翔る群像  航空自衛隊第1期操縦学生の軌跡」を編さんしたとき、私が執筆し同書へ寄せたものである。

    徳田君が執念を燃やして編集発行した本書は、一期生の軌跡をまとめた第一級の史料として評価が高い。

 パイロットに関しては、多くが語られてきたが、航空自衛隊の創設建設期における「1期生の操縦エリミネ-ト組」の状況は語られたものが少ないので掲載することにした。縦書きをそのまま横書きに変換した。

 

    部隊戦力の重鎮・実力者となったエリミネート組

                       濵 田 喜 己

一 わが青春の出発点・第一期操縦学生

 昭和三十年六月二日、大空に飛躍したいとの夢を胸に、第一期操縦学生として、全国から馳せ参じた若人にとってこの日は、生涯で最も記念すべき、忘れられない日である。いつも同期会の日取りとなると、だれかれとなく期せずして先ず、この日になってしまう。顔を合わせると、時を越え同期の桜になってしまう。不思議なものだ。理屈なしに、素直に当時の青年の心にかえることができる。

 そこには、目標を同じくし、十か月の基本課程を主軸として、全員が同じ釜の飯を食い、同じ土俵で厳しい教育訓練に切磋琢磨したところにあるのではなかろうか。世間知らずで、生意気で、元気に満ち溢れ猪突猛進した若獅子の面々が、それなりに一途に精一杯青春を謳歌した日々がよみがえってくる。

 出発点は同じでも、その後の人生・歩んだ道は異なったが、七十歳を目前にし、航空学生制度五十周年を迎えるにあたり、去来するものは「よき時代・青春を過せた」との満足感や思いは同じではなかろうか。

 わが青春の出発点は、一期生というパイオニアとしての誇りと体力、気力を充実させ、勇気をもって未知の世界へ挑戦し飛躍の基礎を築いた時期であり、人間形成の上からも大事な年代であったように思える。

 

二 操縦学生免組の進路の分岐点

 昭和二十九年発足した航空自衛隊が採用した操縦学生(後に航空学生)制度は、操縦者の急速養成のため創設された世界的にも画期的な制度であった。

 当時、飛行隊増勢下で進められた操縦者養成体系は、人事的な観点から見ると、階級が低い中途の段階で操縦免となった者には実に厳しいものがあった。特別の昇進等の保障はなく、操縦課程において操縦免になることは即操縦学生、操縦幹部候補生の肩書きがとれ、身分は一般の隊員として取り扱われることとなった。

 操縦者の戦力造成の陰で、多くの同期生が各操縦課程で操縦上の何らかの理由でエリミネ―トになっていったが、階級も空士長から二等空曹が多かった。志半ばにして潔く退職し民間に、あるいはそのまま自衛官に留まる組に分かれた。自分の判断で将来の方向を決心し、毅然として新たな世界へ転進したが、パイロットへの道を一途に進んだものとは別の厳しく、苦難の人生が待ち構えており、幾多の困難に立ち向かうことになった。

 

三 空自部隊戦力の重鎮・実力者

 時まさに、航空自衛隊は創設期の建設の時期であった。あらゆる分野で柔軟性に富む優秀な若手を必要としていた。操縦をエリミネ―トになった人たちには別の広い世界が待っていた。多数の同期生が予想もしなかった現場に配置されたが、こつこつと下積みの苦労をしながら持ち前の資質能力と柔軟性を発揮し実力をつけ、各分野で頭角を現わしていった。後年、部隊戦力の中核として活躍し、それぞれの分野で重鎮として、実力者として、なくてはならぬ存在となっていったことは特筆すべきことである。

 航空機整備、電子整備、通信電子、管制、気象、補給調達、電算・監理、要邀管制、ナイキ運用、警務、衛生、救難、教育訓練、輸送、総務人事等々部隊戦力の中核として、多くの同期生が、各職域で「神様的」存在の人材を輩出した。

 操縦学生免に至る過程は各人各様であったが、その後のエリミネート組の歩いた道は、茨の道であった。さすが一騎当千の若武者、自分の力で新たなる人生を切り開き立ち向かっていった。一期生のプライドを胸に秘め、野に咲く雑草のごとく部隊活動に貢献していった。

 

四 同期の絆と一期生会の発足

 自衛官としてそのまま勤務したエリミネート組の多くは、気持ちを整理し納得した形であったが、操縦者として立派に成長活躍している同期を見たり、民間航空で意気揚々と羽ばたいている様子を見聞したりすると、至る所で挫折感を味わいつつ、わが道を行くと割り切るにはかなりの年数がかかった。長い道のりであったが、吹っ切れた年代であった。他の分野も大小同異あったであろう。

 入隊して十五、六年たち年齢的にもボツボツ人生の方向が見えてきたころ、昭和四十五、六年ごろになって入間基地在勤の同期が中心になって呼びかけ、全国的な一期生会をやろうではないかと期せずして一致し、昭和四十六年六月十二日初めて市谷会館で同期会が持たれるに至った。それまでは職域ごと、地域ごとの集まりはあったが、同期生の絆と年齢・時の流れが、操縦学生制度の裏に隠れたマイナス面を乗り越えた時期でもあった。その後、今日の同期生会が五十年九月、二十周年に会則等正式発足した。

 

五 定年まで勤務した操学免組

 定年まで勤務した同期生について手元の資料を整理してみると、大きな流れを読み取ることができる。

 入校者数二〇七名、操縦学生基本課程修了者数一八七名、十六年後において、自衛隊在職者数九十名(パイロット三十七名、その他五十三名)で基本課程修了者数に対し在隊率四十八%であった。最後まで自衛隊に在職し定年を迎えた者数は、六十八名(パイロット出身二十六名、その他四十二名)で基本課程修了者数に対し三十六・四%であった。

 航空自衛隊創設期の操縦者養成の激動の陰で、操縦学生免となった者については、一般隊員として取り扱われたため、まとまった記録もなく、公にその功が語られないが、いつの日か操縦学生制度における多数の操縦学生免組の存在と建設発展期の航空自衛隊に著しく貢献した功績は高く評価され記録されるべきであろう。

 操縦学生免組で、航空自衛隊において三十余年にわたり一途に部隊勤務に励み、定年退職した者は、次の諸君であった。(○内は区隊、分野は定年前を主に分類した。)

 航空機整備分野では、村田隆① 西山淳① 間正守① 伊藤邦男② 天野勝③ 篠田靖夫④ 難波良章④ 野崎実④、電子整備分野では、髙橋洋① 飯島勝次③、通信電子分野では、馬場雍① 小林人士② 松村義文④、管制分野では、山瀬法男② 浅谷良則③ 山田繁④ 湯浅良信④、気象分野では、戸田勲② 矢端武彦② 水野達雄③、補給調達の分野では、古賀幸雄① 西藤正信① 宝官賢治①鈴木多門③ 高坂清美③ 戸祭日出男④ 炭野智④、電算、監理分野は、菅信介②、大畑正志② 熊谷邦之助④、要撃管制分野では、千綿安次③、ナイキ運用分野では、山足喬④、警務分野では、松岡勳②、衛生分野では、畠山吉秋④、救難分野では、井上正彦② 重村和彦④、教育訓練分野では、佐々木一二①  山中進②、輸送分野では、平山貞雄③、総務人事関係では、濱田喜己③ 小林弘三④ 中根進④