昭和の航空自衛隊の思い出(6)   官舎住まいの模様

1. 夫人の集まり

    長い官舎生活の中で、夫人たちの間で序列があるとか、旦那の階級を傘に取り仕切ることに出会ったことはなかった。

    家内は若い時代は、年配の夫人から手芸、料理など色々と教わり楽しかったことが多かったと述懐している。

    同年代同志、 気の合った同志など、グループが出来るのはどこの社会でもあることであたりまえのことであろう。

     自衛隊を平成2年退官、OBになって24年余経つ今日、私が年賀のやりとりをしている対象は、官舎に住居したことではなく、一緒に困難な仕事をやり遂げた仲間が中心であるのに対して、家内は 何十年経つても、官舎生活でお世話になった多くの方と今もって年賀のやりとりや電話で年に1回は近況を話し合っている。

    隊員にとって官舎は、即応態勢の待機の場であり、厳しい勤務を癒す家族との生活の場であるということができる。

   

2. 転勤引越しと子供

    今顧みると親の転勤引越しは子供たちにとっても大きな負担であったと思うことがある。その点では親の転勤引越しで苦労を掛けたようだが、それをお互いが口にすることはなかった。子供の方がその辺のところを察してくれていたのかもしれない。

   親の転勤引越しは、就学の子供にとつては転校を伴った。親しくした友達と別れたり、学力面で子供にとって大きな問題であったと思われるが、官舎生活ではごく当たり前のことであったのであえて聞いたこともなかった。

    子供との一緒の生活を重視した。大人と同様に、自然体で子供は子供なりに世間の風雪に耐え、喜びも悲しみも味わいながら過ごすことが大事だと考えてきた。

     高校進学、転校などで、止むを得ず家族を家内の実家浜松におき、短期間であるが、単身赴任も経験した。

    振り返ると、家族が「全員健康」であったことが自衛官生活の最高の勲章であったと思っている。

  

 

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 《 昭和40 年(1965年) 第44警戒群(房総半島南端の峯岡山)勤務時代・2尉、千葉県鴨川町坂東にできた新設の坂東官舎(4戸)に入居した。最初の長狭官舎(2戸)から初めて引っ越した。部隊から12km離れた官舎で狭いながらも4人家族には十分であった。玄関わきにまきが積んであるところから風呂はまきであったように覚えている。職場・職種は異なっていた。少ない戸数の官舎なのでお互いが助け合う生活であった。》