昭和の航空自衛隊の思い出(4)   喜びも悲しみも幾年月

1.  喜びも悲しみも幾年月

 木下恵介の有名な作品、映画「喜びも悲しみも幾年月」は、昭和32年(1957年)公開された灯台守夫婦の波乱に満ちた人生を描いた物語であり、高峰秀子佐田啓二の名コンビが日本中を感動の涙・涙で沸かせたものである。

 灯台守夫婦が勤務のために全国を転々としながら愛を育み、激動の時代をくぐり抜ける人間賛歌は、このことを航空自衛隊に置き換えると、離島の僻地にあるレ-ダ-サイト勤務はまさしく日本の防人たち夫婦の物語と重ねることができた。

    今も昔もの黙々と現場で任務を遂行している人たちによって日本の平和があることを忘れてはならない。

 

2. 離島等僻地における勤務

    航空自衛隊は、戦闘機等を中心とした航空基地と警戒監視を任務としたレ-ダ- 基地がある。とりわけ離島及び沖縄勤務は大変なところである。今でこそ離島の地域振興も進み発展してきたが、昭和の時代は現在より過酷な勤務環境にあった。

    私は20代の頃、要撃管制幹部としてレ-ダ-サイトに勤務した。長じて西部航空方面隊司令部の人事幕僚、西部航空警戒管制団司令部人事部長として、初期の沖縄展開部隊勤務者の空曹交代人事や離島勤務者の適正な異動管理の諸問題の解決に向かって、心血を注いで取り組んだことがある。

 当時、西部航空警戒管制団は内陸部の基地はもとより見島、海栗島福江島下甑島の離島勤務者に対する勤務環境の向上と処遇は最大の課題であった。官舎の確保はもとより子弟の学校など深刻な問題があった。

 離島で24時間勤務体制で警戒監視に当たる隊員には一定の年数を勤めたら確実に内陸部の基地に勤務できる人事管理の確立に苦心した。特に家族を連れての赴任を進めるにあたって、官舎の確保は重要な問題であった。

 官舎の法律上の設置目的や即応態勢の維持以前に、後顧の憂いなく勤務できる体制作りのためにも官舎の確保と楽しく思い出いっぱいの離島生活を送れるようにすることは極めて重要なことであった。

 現場の指揮官にとって、隊員が離島勤務を「島流し」でなく、誰かが交代で任務をやり遂げる意識の高い隊員の確保と一定期限の任務を完了したら必ず面倒を見れる体制作りが求められていた。

 「人生至る所に青山あり」で、一般基地では味わえない体験をし、家族帯同者の多くは「住めば都」とその土地でしか出会えない数々の思い出を作って別れの船着き場でテ-プを握り涙・涙で惜しまれながら転任していった。

    自衛隊勤務における 官舎について単に家賃の比較程度で論じていた新聞テレビの上ずった報道を見た時どれだけの人が自衛隊官舎の存在意義を分かっているのか心を痛めたものである。

 今も映画のように、厳しい環境にある全国の自衛隊基地・駐屯地において、多くの自衛官が「喜びも悲しみも幾年月」の自衛官人生を送っている。人生は苦しいことも楽しいことも悲しいこともある。

 

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 《 木下慶介の名作映画・喜びも悲しみも幾年月 灯台守夫婦の人生を描いたもので全国各地の灯台を転勤していくさまは自衛官の転勤と同じであった。》

 

部隊の配置図

《 西部航空警戒管制団ホ-ムぺ-ジによる部隊配置、離島サイトは見島・海栗島福江島下甑島 》