こころのふるさと(20) 羽合中学校野球部のクラブ活動

 1.  中学生にとってのクラブ活動

     昭和23年4月羽合中学校に入学した。中学ではどこかのクラブに属して活動することは昔も今もあまり変わらないが今ほどではなかったような気がする。私は野球部に入った。「部活」という言葉は昭和20年代使っていなかったように記憶している。

    心身ともに急速な発達をしている年齢だけに厳しい練習に耐えながら良く頑張った。今や少年時代は帰らじ、思い切り野球の練習に励み、鍛えられ、羽ばたいた時代があったこと、思い出をいっぱい作ってくれたことに感謝している。

     後年、自衛隊で厳しい訓練にものともしなかった心身はこの中学時代の基礎作りにあったのではないかと思うことがある。

 

2.   少年の日の野球部
     中学の野球部ではキャッチャーをした。キャッチャーには、先輩に宇野の伊藤強さんがおり、強肩の持ち主であった。
      正選手になったのは2年の後半であった。 郡の中学野球試合に出場した。他校との試合を通じて優秀な選手のいることに刺激されたり、交流を深めるこことなった。
 私の相棒はピッチャ-の田後の洞ケ瀬二一君であった。長身で好男子の彼は気立てのよい、どちらかというと寡黙な少年であった。学校を卒業してからは大阪の電鉄会社に勤め、定年退職後郷里田後に帰ってきた。現在同級会の幹事・世話役をしてくれている。
 野球部の監督は鈴木治文先生、実に熱心に指導され、熱血漢で放課後練習には一緒に励んだものである。自分の人生において強健な身体になっていったのは中学のときの部活ではなかったかと後年思った。
 野球部で忘れられないのは、マネジャ-の秋田昭之助君である。これこそマネジャ-役適任で裏方の仕事を全部担い、細やかに実にてきぱきと裁いていた。銀行員となったが支店長等として金融界で活躍した。 
    中学では、野球に熱中したが、高校に進学してからは野球から遠ざかった。高校野球の応援には熱が入ったが、自分より野球能力がすば抜けている者がいることを知ったのと勉強への関心に移って行ったようであった。
 後年、自衛隊でソフトボ-ル大会等があると少年時代の野球が役立った。
 
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《 羽合中学野球部ナイン  郡総合体育大会にて北条中学と対戦し勝利の後の撮影 》
 
 

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《 昭和26年 羽合中学卒業記念 3学年の野球部ナイン 前列右から 福本富雄君・鈴木治文先生・古田喜代造君・鳥羽佳美君  後列右から松原寛君・濵田喜己・秋田昭之助君・洞ケ瀬二一君・入江清保君 》