こころのふるさと(19) 希望に満ちた羽合中学校

1.  広い世界へ飛び出し、心が躍った中学入学

     昭和20年日本は大東亜戦争に敗れた。米国等の連合軍の占領下におかれ、あらゆるものが大変革する中で、6・3・3の新学制制度が発足し、旧制中学は廃止され、新制中学、新制高校が発足した。それによって鳥取県東伯郡の長瀬・浅津・橋津・宇野の四か村の組合立の羽合中学校が誕生した。

    昭和23年4月新制中学に入学することは、小さな集落の宇野小学校で、小人数・1学級でのびのびと育ってきた私にとつては、それこそ広い世界に飛び出し、大海原に漕ぎ出した感じであった。

    不安よりか心が踊り希望に満ちていたように記憶している。

     戦後いち早く子供の世界に入ってきたのは野球であった。小学6年生の頃、クローブも球もない時代、家で作ってもらった布に綿を入れたグローブらしきもので草野球をしていた。

     小学高学年になると行動範囲も広くなり、中学入学前に、隣村の橋津に出かけて子供同士で試合をしたものである。

    子供達の創意工夫でそれらしき手製のものを使って橋津の海岸で交流試合をした思い出がある。

    子供達は、子供なりの世界で、広い世界を求めて活動していたのだった。こうしたことから、私にとっては中学に入学できるのが待ち遠しく、喜びが一層強かった。    

 

2.  広い世界へ羽ばたいた中学

    昭和23年4月羽合中学に入学した。小さな村で、下級の子たちを従えてお山の大将的なところがあっただけに、他村で育った知らない者同士の集団に入ったことは未知の新しい広い世界であつた。

    中学のクラス編成は、小学生時代の級友がバラバラになり、それぞれが自主独立し、新しい世界を切り開いていくこととなった。

     宇野から中学まで片道4kmの道のりであったが、成長期の生徒にとっては何の苦にもならなかった。

     通学の往復は、新しい友達の家に立ち寄ったりして、見聞を広げることになり楽しさが増した。

     毎日8kmの徒歩は心身を鍛え逞しくしてくれた。2年生からはクラブ活動は野球部に入って暗くなるまで練習して家路につく毎日であった。

    その一方、宇野小学校卒業の同級生との出会いが少なくなり、お互いが広い別世界へと羽ばたいて行った。

  1年生後半ともなると、 同級生はお互いの気心も分かり、 学級活動も安定してきた。

    当時学級ごとにホームルームの委員長や係りを選挙で選んでいた。勉強の方はほどほどであつたのに、いつの間にやら卒業するまで学級が変わっても毎回委員長に選ばるようになってしまった。

    どちらかというと幼い時からあまり喋らず、じっと話を聞くのが好きであった。行動は活溌であったが寡黙の方で、 必要な時だけ発言するタイプであった。

 

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 《 昭和23年2学期 羽合中学1年A組 担任鈴木治文先生のクラス 》

       

3. 間借校舎と新校舎

 昭和23年4月希望に胸を膨らませて入学した校舎は浅津小学校の間借であった。

新校舎ができるまでの間、各学年ごと長瀬、橋津、浅津と分散していた。

 浅津は自然豊かな東郷池のふもとにあり、宇野から片道4kmで学校に通うのが結構楽しかった。

    通学の帰りには広がる水田の畔を歩き、野の草花、タニシやイナゴ、バッタを相手に遊んだこともある。   

    東郷池を遠足で一周したり、シジミ採りや魚取りをしたこともあり自然の豊かな羽合の一端を知ることができた。

 昭和23年9月長瀬の久留に新校舎が完成し移動した。上井の振興工業kkのお古が移設され校舎になったと聞いている。

   昭和25年12月のある日2階教室の床が抜けたが幸い負傷者もなかった。

 新校舎に入った頃は、校庭も整備されておらず、先生と生徒が一緒になって石ころを拾い、土を運び汗を流して校庭づくりに励んだ。それだけに愛着のある校庭であった。

    手元に、昭和29年11月羽合中学校が作成し、卒業生に配布した「卒業生名簿」がある。転勤のたびに散逸することなく60年間保管してきた資料である。

    母校の沿革、卒業者数、職員・卒業生名簿、諸先生から卒業生へと言った内容である。古びたものだが貴重品となった。

 

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《 昭和23年・1学年 羽合中学校舎落成記念学芸会「銀の食器」出演 私はシャベル警視役を演じた。 》

 

4.伯耆大山登山

 鳥取県の秀峰富士ともいわれる大山は、羽合中学から毎日眺められた。

大山登山は大山口駅から歩いて大山ふもとの宿坊へ向かった。翌朝午前2時に起床し、懐中電灯頼りに河原から頂上を目指し、少年少女はひたすら助け合いながら登り、ご来光を山頂にて迎え感動したものである。

    後年、航空自衛隊に入り、幹部候補生学校に在学中、部隊研修で美保基地を研修した折、再び大山に登ったことがある。装備を付けての訓練登山であったが、青年幹部として張り切っていた時代であり、羽合中学の生徒登山を思い起こしながら、楽しみながら登った。

 また、ある年に、浜松から郷里宇野へ自動車で帰る途中、大山寺に立ち寄り、大山宿坊から大山口駅まで車で通過したことがある。よくぞこんなにある距離を中学生時代全員が完歩したことに驚いたものだ。 

    人間はいつしか自分の歩いた道をたどってみたいと思うことことがある。改めてその場に身を置くと、当時のことが思い出され郷愁の念が湧き上がったものである。

 

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《 羽合中学2学年8月 大山登山 》

 

5.水泳大会 

 昭和23年から26年3月の羽合中学にはブ-ルはなかったが、橋津海岸に行けば豊かな日本海があり、特設の踏み台等を作って水泳大会が行われたこともあった。水泳は日本海で育ったので誰に教わるでもなく得意で自信をもって出場したことがある。

 後年、航空自衛隊に勤務してから各地の水泳訓練、救助訓練等で子供の時に覚えたことが役立つた。幹部候補生時代の遠泳訓練などでは訓練生なのに泳ぎの方でなくて、随伴の小舟の魯の漕ぎ役を命ぜられたこともある。これは幼少時代に宇野の海岸で子供同士で覚えたことが役立ったものである。

 自衛隊退官後も定期的に水泳クラブで泳ぎ続けてきた。今日まで元気に過ごせたのは日本海に育ててもらったお陰と思っている。最近はがんとの闘い等で中断しているが、浜松の誇る古橋進之助記念プ-ルで再び泳ぎたいと思っている。

 悠然と誰はばかることなく国際公認認定のプ-ルで泳ぐ気分は最高である。健康であれば楽しいことがあるものだ。 

 

5.修学旅行

     修学旅行は、京都、大阪であった。胸をふくるませての宿泊旅行であった。京都で平安神宮銀閣寺、清水寺など神社仏閣、大阪では大都会の凄さに圧倒された。

   西宮市で行われた戦後初の本格的な博覧会「アメリカ博」(昭和25年3月18日〜6月12日開催)を見学し、壮大な未知の世界に感嘆したものであった。

     戦後の米統制時代だったので、各人お米を持参して旅館に提供したように記憶している。

     いつの時代も子供時代 の修学旅行は、今までの行動範囲をはるかに超えた場所での社会勉強であり、心に残るものである。

    特に、今の時代と異なり、新幹線もなし、蒸気機関車で大阪・京都に行くのは大変な時代であっただけに、貴重な経験であった。

    慣れない新品の靴を履いてマメができたのも懐かしい思い出である。

    現代中学生ともなればデジカメで思い出を記録するであろうが、まだその時代ではなかった。ましてや修学旅行の写真集がない時代であった。

     思い出の写真は少ないが何かのきっかけがあれば記憶が蘇みがえるかもしれない修学旅行であった。

 

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《 羽合中学修学旅行第1日目 男子組 京都平安神宮 》

 

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 《  羽合中学修学旅行最終日 男子組 大阪にて夜行列車を待つ夕の夕方ひと時 》

 

 6.大きく育んでくれた羽合のふるさと

     人生において、中学時代は伸び盛りで心身が急速に成長する時期である。私にとって羽合中学は新しい世界が開け、無我夢中でがらむしゃに前へ進んでいったような気がする。

    親は見守るだけで、自分で色々と考えて決めていたようだった。

    クラブ活動も野球部に決めたのも自分の考えで決めた。自立心が強くなった。また、学年が上がるにつれて周りに気を配るようになってきた。

    私にとって、何と言っても一番の財産は長い人生航路において励ましてくださった恩師を得たことであった。恩師とは自分で作るものである思う。

     資料によると、私達羽合中学卒業第4回生は、189名で男子81名、女子108名と記録されている。

 

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《 昭和25年羽合中学3年Ä組 担任絹川初春先生 》