1. 担任先生はいつまでも「恩師」の存在
今と昔の担任先生と児童の関係はどうであろうか、ふと思うことがある。
昔から先生は「聖職」といわれるほど文字通り、教わった子供はもとより父兄も、社会全体が先生に対して尊敬と敬愛の念をもって接してきた。
戦前・戦後においても、先生の存在に変わりはないと思うが、戦後の社会制度、教育制度・教育指導、価値観の多様化など様々な要素が入り混じって大きく変化しているであろうか。
私は小学校、中学校における担任先生を終生、恩師と敬ってきた。担任先生も静かに見守ってくださった。自衛隊勤務、定年後に至るまで、何十年と近況報告を兼ねて年賀状のやり取りをして励ましとご指導いただいた。私の脳裏には、担任先生は時代を超えて「恩師」という存在であると考えてきたからである。
こうしたことから子供や孫たちを通じて将来はどうなっていくであろうかと気にかかるものである。
先般行われた私の住む浜松市西区神久呂の成人式で、小学校6年,中学3年時の校長先生と担任をお招きした式典で先生方が入場するとドッとどよめきの声があがった。
世の中がどんなに変革しても、「先生は先生」であり、「生徒は生徒」である。どのように自分の教わった先生を自分が受け入れるかによって人生が変わってくるように思うがどうであろうか。
2. 戦時下、戦後における小学校の先生
私は昭和17年4月鳥取県東伯郡宇野村(戦後町村合併により「羽合町」となり、さらに「湯梨浜町」となる。)の宇野小学校(当時は「国民学校」と言っていた。)に入学した。
大東亜戦争中は、若い男先生は軍隊に動員され軍務についたため、校長先生、教頭先生等を除き女の先生であったが、終戦とともに男先生が教職に復帰された。
当時を顧みて、担任の先生のみならず、どの先生も教育に熱心で村民も先生を「聖職」として尊敬されていた。親たちは昼間は家業に忙しく、子供はお手伝いと遊びに忙しく、勉強は学校でやってくるといった感じであったように記憶している。
「宇野小学校100年誌」に見られるごとく、学校教育に関しては村民あげて熱心であったと記録されている。
「宇野小学校100年のあゆみ」及び同級生尾崎郁代さんの作成した資料によると 、私のクラスの担任は、井上久野子(尾崎)17.4〜19.8・伊藤登美子(浅井)18.4〜24.3・伊藤田鶴子(福本)19.4〜20.3・上本常心(池田)20.4〜21.3・青目益雄21.4〜22.3・足立秀野12.4〜23.3・岸田善吉22.4〜24.3の各先生であった。
3.宇野小学校における思い出の先生
井上 久野子(尾崎)先生
井上久野子(尾崎)先生は宇野村の庄屋の令嬢で若くて美しい先生であった。先生にとっては師範学校を卒業して最初の赴任校、私たちのクラスが初めて受け持った児童・学級であったとのことである。
自分で台本を書いた創作劇で、お父さん役に私、お母さん役に尾崎郁代さん、その他全員に役柄を決めて学芸会に発表されたことを熱心に話されたのが強く印象に残っている。
長年教職にあり鳥取県鹿野町の教育長をされたこともある。3年前に鹿野町に同級生8人で訪問し、思い出話に花を咲かせたことがある。長い間年賀状でいつも励ましの言葉をいただいた。
《 平成23年9月22日羽合中学同級会の折、翌日23日~24日にかけて宇野小学校卒業7名が井上久野子先生宅を訪問して懇談、亡くなられた足立秀野先生宅で仏前に御礼を申し述べお別れした。山紫荘に1泊して宇野の子供時代を語った。蔵本康雄君・濵田喜己君・尾崎郁代さん・上川郁子さん・絹見五百子さん・倉繁梅子さん・竹中敏子さんであった。》
足立秀野先生
足立秀野先生は、宇野小学校の勤務が長く、私達のクラスは1年から6年卒業するまでお世話になった。私の家の隣に住まれたこともあり、大変お世話になった先生である。夜分わからない点を教わりに行ったこともあった。
夫妻とも教職にあり、私の兄姉たちも先生に教わっておりお亡くなりになるまで年賀状で励ましをいただいた。井上久野子先生をお尋ねした折、同じ町内の足立先生宅を訪れ仏壇にお線香をあげさせていただいた。
青目益雄先生
青目益雄先生は、大東亜戦争の最中海軍航空隊に入隊し、戦闘機搭乗員として多くの戦友が大空に散ったが、幸い生きながらえて復員され宇野小学校に奉職されたとのことであった。クラスの担任は6か月とのことでした。
若々しく青年教師そのもので活動的でハツラツとしておられた。平成8年の同級会の折、先生から便箋四枚のお便りをいただいたとのことで、尾崎郁代さんからコピ-をもらい現在もファイルに綴っている。
その中で先生は実に克明に当時のことを記しておられて私にとってはこれを読むことによって、子供時代を思い起こすことが多かった。先生にとって宇野は因縁のあるところで、中学・師範のころしばしば訪れたそうです。航空隊入隊に当たって作った歌は「時あらば散って砕けた益良雄、吾れは荒磯を撃つ怒涛の如くに」とあります。
宇野の西島に押し寄せる9月の荒涛を眺め、戦死を覚悟しての詩であったと認めておられます。まさに辞世の句であり、当時の先生の心中であったと拝察します。
こうした苦難を乗り越えて教職に就かれたことは、子供たちは知るよしもなく無邪気に先生になついたものです。
上本常心(池田)先生
大東亜戦争の敗戦によって満州から幾多の苦難を経て復員され宇野小学校に奉職された。4年生のときの担任である。敗戦国の悲惨な状況を話されたこともあった。池田先生は結婚されて、上本の姓となられた。
その後、中学の先生となられ、私が羽合中学、倉吉東高に進み、自衛隊に入隊後も毎年年賀を差し上げてきた。三朝中学校の校長先生もされ、お亡くなりになるまで、終生見守ってくださり、お便りもいただきご指導を受けた。
中学の担任鈴木治文先生、絹川初春先生と一緒に私の人生で最も忘れられない恩師であった。長き人生において小学生時代からどこに転校されようと何かと気にかけていただいたことが人生の励みになったものである。
岸田善吉先生
6年生の時の担任は、ヒゲを生やした岸田善吉先生で、高僧のような感じの方であった。「養心録」という名の日記を書くことを勧められた。
今にして思うと、日記を綴ることを通じて、物事の善悪・良い心を養ってもらいたい、自分で文章を書く能力を高めることをされたのではないかと思う。
これは、ある面ではその後はやった「綴り方教室」に相通じるものがあり、それよりずっと前の発想であったように思える。単に文章を綴るのではなく、戦後の混乱期にありながら物心ついた小学6年生にしっかりとしたものの見方・考え方を養わせようとされたように受け止めている。
長い間、ご無沙汰して、第一回の宇野同級会にお会いしたのが最後であった。御冥福をお祈りします。
《 昭和21年3月 宇野小学4年生の頃 西島で記念写真、後ろは日本海の荒波が映っている。前が担任上本常心(池田)先生、後が青目益雄先生 》