こころのふるさと(15)  宇野小学生の時代

1. たった6人の男子

    昭和17年4月鳥取県東伯郡宇野の小学校入学した。大東亜戦争の始まった翌年である。

    小さな村・集落であったから、学級は各学年とも1クラスであった。    

    私の学級内の構成は、1年生の入学式と6年生の卒業式の写真を並べて見ると男子が極端に女子より少ないのが特色であった。

   入学時が男子6名、女子23名で29名、6年卒業時が男子は10名、女子29名で39名であった。

    入学時より増えたのは、大東亜戦争の末期に都市部から疎開してきた者が加わったからである。

     男子が極端に少なかった分、お互いの結束が強かったように思う。時には上級生や下級生の中に入れてもらって遊んでいたように記憶している。

    多くの場合、男子同士で遊んでいたが夕方は家の周りで隣近所の男女一緒に遊んでいた。夏は海、秋は山と一緒に遊びまわっていた。 走力・泳力・行動力・舟こぎ・魚貝獲り・栗、アケビ取り・冒険心、探究心、独立心、団結心・強調心など数え上げられないほどである。

 

2. 大東亜戦争末期と戦後

    今の時代と異なり、小人数・学年1クラス で、学校の統合などなかった時代であったが、大東亜戦争が末期になると都市部空襲による疎開、敗戦による海外からの引き上げにより新しい児童が入り、級友が増えた。

    これはあらゆる面で都会の新しい文化に接し体験談を聞き、大きな影響を受けることになった。

    振り返ると良い点だけが浮かび上がるのはどうしてであろうか。

 

❶1学級しかないのだから1年生から6年生まで6年間同じメンバーだとお互いのことがよく分かるものだ。性格などもよく分かった。みんな幼馴染という感じであった。全員が田舎の学校の児童らしく純真・素直な集団であった。

    高学年になるにつれて、戦争の激化に伴い、大阪等から宇野へ疎開する人達が増えてきた。私達のクラスでは入学時より10名増えたことになる。

     都市部からの疎開によって、子供たちにも都会の文化と外からの刺激が与えられた。学習、交友関係、遊びなどあらゆる面で広がりができて良かったように記憶している。

     特に、大阪から疎開してきた志満政男君は頭も良く落ち着いており、男子組に大いに刺激を与えた。後年、優秀な彼は大阪市役所で大活躍し、中学の同級会の世話役をやってくれたりした。

    このように固定した小人数の子供社会に、都会から疎開してきた子が加わって新しい体験や刺激が出来たことはクラスにとってプラスになったことは間違いがちない。

     転校生に対するいじめなどはどうであったか全く記憶にないが、同級会のおりいじめが話題になって、ある一人はいじめがあったと笑い飛ばしていた。どんなことなのか定かではなかったが、それは申し訳なかったと謝ったことがある。はるか70年前の出来事であった。 

 

❷昭和20年8月大東亜戦争で負け、軍隊は解隊され、村には壮年・若者が多数復員してきた。また、海外から軍人軍属等・家族が多数引き上げてきた。

     親戚の浜崎延博君は、父親は抑留、朝鮮から家族と共に逃避行しながら命からがら帰国をした一人であった。

     体格もずば抜けて大きく、歳も1歳年上であったが、引き上げは勉強どころでなく苦難の日々を送ったので、1級下の私と同じクラスに入ることになった。

     異国での苦労など宇野の東島で魚貝獲りしながら男子全員が輪になって彼の話を聞いたものである。

     狭い世界で暮らしてきた同級生にとっては、経験したこともない体験や広い世界のあることに感動し、親たちからは教えてもらえない話など啓蒙されたものである。

     後年、優秀な浜崎君は大阪大学に進み、優れた能力を発揮して職業人として大活躍した。阪神淡路大震災後の高校同期会で再会し、同期会の様子を撮ったビデオを贈ってくれたりしたが、病に勝てず早く逝ってしまった。惜しい人物であった。

 

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 《 昭和17年4月 宇野小学校入学時の記念写真、男女ともお互いに「ちゃん」呼びしていた。今でこそ「さん」呼びしているが、やっぱり《ちゃん》がピッタリくる時代である。当時「国民学校」と言っていた。男子6名・女子23名・全員29名 》

 

 

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 《 昭和23年3月 宇野小学校卒業記念写真、男子10名・女子29名・全員39名、都市空襲等による疎開、海外引き上げによる生徒数の増加によるものである。 》

 

3.  団結力が強かった

    学年1クラスだけに団結力があり、上級生になると子供達で計画して茶話会をやったりしていた。各家庭から食材を持ち寄って、煮炊きをして、今で言う食事会をしたものである。

    その後、社会人になってからは仕事か忙しくで宇野だけが集まる機会はなかったが、中学単位の同期会は割合早くから行っており、その席で宇野グループが集まっていたように覚えている。

    宇野小学校の同級生会の第1回は昭和の時代に、先生をお招きして児童が集まり宇野公民館で行ったことを記憶している。

    次いで、平成3年に当時の先生と児童が集まって宇野小学校同級会を羽合温泉で開いた。同級生の松村喜一郎君、尾崎郁代さんが中心となって企画運営してくれたことを記憶している。さらに平成8年姫路城花見を舞台に宇野小学校の同級会が開かれた。

    もう二度と子供時代は帰って来ない。やり直せない。人生とはやり直しが効かないものである。

    小学生時代が 大東亜戦争最中であり、戦後も貧しい時代であつたが、山陰の田舎で過ごしたせいか楽しい思い出ばかりであるのは幸せである。