わが心のふるさと(7) 母なる父なる宇野海岸

ふるさとの海と海岸

   人にはそれぞれ子どものころの思い出があるものだ。

  どこにでもある海岸であるが、自分を育ててくれた母なる父なる日本海の湯梨浜町宇野海岸は、子ども時代の遊びの場であっただけに海岸に立つと心が高鳴り、遥か70年前の子供の頃がよみがえる。

  ここには、遊び、探検、魚取りの場があり、友達との交流、競争の場であった。自分にふるさとがあることがたまらなく嬉しい。

 

鍛えてくれた海

     物心ついた頃から砂浜に出かけていた。家から50メートルほどのところが海岸であった。

    親たちは農作業に忙しく、子ども同士で遊び、誰に教わるともなく自分で泳げるようになった。真っ黒になって遊んでいた。泳力もかなりのものになり自信がついた。多分上の子を見て真似て育ったせいであろう。

     波乗りも自然に覚え上手になった。板一枚で土用波を乗りこなすことが出来た。

     溺れかけるくらい苦しい思いをしたこともあった。でも親にそのことを話したことはなかった。

     宇野の海が私を鍛え育ててくれたのである。丈夫な身体をつくり、泳ぎ、潜りの練達がその後の人生に大いに役立ったもである。

 

冒険、挑戦、鍛錬の島・岩場

     宇野海岸の東西の島・岩場は、自然の観察、冒険、挑戦、鍛錬の格好の場であった。

     東島は女性的、母親のような岩場であり、丸みを帯びた大石が並んでいた。一人で潜っても遊んでいても恐怖感は全くなかった。自分の海のように自由に泳ぎ、潜り、遊びまわる内に、自然の宝庫を観察し冒険、挑戦、鍛錬された。

    一方、西島は男性的、父親のような岩場であった。岩場を潜ると深く何となく恐怖感があったのを鮮明に記憶している。

    したがって、低学年の時はまつぱら東島で遊び、高学年になってようやく西島に出かけるようになった。

    東島の岩場の一つひとつを探検し、自分の秘密の穴場をもったものである。

船の櫓が漕げるようになった。

 

海の幸を招いた海岸

    子供の頃は、海岸近くの沖合での漁業が主体であり、威勢の良い掛け声が飛び通う大漁の海岸であった。

    砂浜には船小屋が立ち並び、地引き網が盛んであった。魚群が押し寄せ、浜は活気に溢れた。東西の高台で大人が旗などを振って網を打つ船を誘導し、村中総出で網を曳いたものである。どんな小さな子でも手伝えば立派な労働力として取り扱われ、分け前をもらったものである。

    戦後は海岸の砂浜に海水を何回も撒き、濃縮海水を煮詰めて塩を作る塩田も行われた。子供ながら海水を運んだり、塩水を煮詰めるマキくべを手伝ったりと結構自分の役割を果たしたように記憶している。

 

自然を学んだ日本海

 

 母なる父なる宇野海岸で自然を学んだ来た。静かな海も大荒れとなるとすさまじいものだ。怒涛が民家に近づくほど押し寄せてきたこともある。

 日本海の恐ろしさも知っている。難破船も何回となくみてきた。消防団を中心に遭難者の救助活動も見てきた。子供はこうした自然、天地の変動におびえながらも逞しく成長していった。

 台風や海嵐の後の海岸には魚をはじめいろいろなものが打ち上げられた。日本海の蜃気楼をよく見た。本当に不思議に思ったものである。今でも思い出せるくらい印象に残っている。沖合の竜巻をしばしば見てきた。

 

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《 鳥取県湯梨浜町宇野海岸 夏場は海水浴場として適地である。いまは遠くまで浅くなっているようだ。昭和20年代までは国道は村中を走っていたが旧道となり、今は海岸にそって立派な幹線となった。現在の国道部分は昔は細い田舎道であり、海岸の草花が茂り、砂浜沿いに船小屋が立ち並んでいた。沖合の防波堤もなく、広い砂浜がつらなり、漁具を広げ網を干していた。子供はたこを揚げ、風車を回し格好の遊び場であった。 》

 

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《 私にとって、子供のころ東島は最も母なる海であった。真ん中に鎮座する大岩は子供の目にはものすごく大きな存在であった。小岩の一つ一つにその構造・配置からどんな魚、海藻・海草があるかまで観察、探検したものである。サザエ、タコもよく獲れた。竹馬の友だった松村喜一郎君、蔵本康雄君、古田喜代造君、浜崎延博君、志満政男君、坂本弘行君、宮本幸次君たちとこの島でよく魚取りをした。》

  

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 《 昭和20年代までは、海岸の砂浜が沖合まで広がっており、戦後しばらくは塩田も行っていたほどであった。私の内では採れた真っ白な塩を母親が担いで徒歩で遠くの山奥の集落に出かけ、お米と物々交換していた記憶がある。小柄な母親のどこにそんな根性があったのだろうかと懐かしむ。どの家庭もそうであった。「母親は強し」と母の背中に子供心に学んだ時代であった。》

 

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《 西島の岩場は男性的で怖かった。小学上級生になって から西の岩場で魚取りをするようになった。海底が深く恐怖感があったように記憶している。松村喜一郎君のお爺さんの小舟を同級生5.6人で漕ぎ出し、西島付近で遊んでいたら途中で強風の嵐が押し寄せて付近の漁師に連れられて帰ったこともあった。みんな冒険心の旺盛な子供であった。こんなことで小学生の時に覚えた魯を漕ぐ要領は今でも忘れていない。海の恐ろしさとやさしさを学んだ宇野の海と海岸である。》