浜ちゃん日記 二宮金次郎像

f:id:y_hamada:20131127094811j:plain《 平成25年11月25日撮影、二宮金次郎像の上半身、残念ながら足元のほうには関心がなかった。 》

 

神久呂小学校の二宮金次郎

   先日、地元の小学校で行なわれた浜松市西区神久呂協働センター主催の「小学校一日入学」に参加した。

校門を入って左側の木立の中に、二宮金次郎像がある。

    私は小学校を訪れるたびに、お馴染みの「まきを背負って本を読む金次郎像」を眺めることにしている。私の生まれ育った故郷・鳥取県湯梨浜町の宇野国民学校当時も校舎正面に金次郎像があったように記憶している。

二宮金次郎像は、大正から昭和にかけて全国の小学校などに2万体が建立されたとのこと。

 

静岡わたしの世界遺産・大日本報徳社

   11月30日中日新聞夕刊に「静岡わたしの世界遺産・大日本報徳社」が取り上げられた。    二宮尊徳は、幼名金次郎、1787〜1856年、江戸時代の農政家である。

 記事によると、二宮尊徳の報徳の教えを広めるため幕末から明治にかけて全国に1200も組織された報徳社の本社は掛川市におかれた。

当時困窮した農村や藩財政の再建などに身を投じた二宮尊徳が、道徳と経済の融和を説いた報徳の教えで「報徳運動」であるという。

 

    二宮金次郎像について 

   二宮金次郎像については、子供の頃の記憶だと、まきを背負って歩きながらでも寸暇を惜しんで勉学に励んだ。一生懸命勤勉しなさいとの教えのように思ってきた。

 記事によると、   二宮尊徳の7代目の子孫の一人(関西学院大学講師・中桐万里子さん38歳)は、「まきを背負って本を読む金次郎像を眺めるとき、いつも言われたことは、大切なのは、どんなときでも一歩前へ向かおうとする「足」。本や学びは、あくまでも歩むために必要なのなのだと。徳に報いる「報徳」とは、実践そのものなのだ」と話が要約されていた。

子孫の解釈だけに納得するものがある。

    調べてみると、薪を背負って歩きながら本を読んでいた、というあの姿は、1881年に発行された『報徳記』に記述があり、それを基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)で、挿絵として初めて登場したとされているようである。
  「働きながら勉強をしていた」というのを一枚の絵でわかりやすく伝えるための表現だったというのが一般的な解釈のように思える。

  運動の精神・原点にかえって、人としての生き様、生活の仕方、あり方を説いたものであると素直に解釈するとすんなりと受け入れられるように思える。