こころのふるさと(1)  いつも心のふるさと宇野を思う

 わが故郷は、日本海に面する鳥取県湯梨浜町宇野!

 いつも心に浮かぶものは、亡き両親であり、逝ってしまった兄姉たちとの想い出、さらには故郷の海・山・集落の家々である。

 私の生まれは、鳥取県の中央部に位置する湯梨浜町の宇野という小さな農漁村の村である。前に広がる大海原の日本海の潮をあび、後ろには山々が連なり、東に鳥取砂丘、西に秀峰伯耆大山、近くは東郷池、はわい温泉、少し離れて三朝温泉、投げ入り堂がある。

 県立倉吉東高等学校を卒業し、故郷を後にしてから60年、いつも心の片隅には故郷が思い出される。

 大空に夢を託して航空自衛隊に入隊し、若い時はひたすら教育訓練に励み、一人前になると千葉県の房総半島の峰岡山の山頂に位置するレ-ダ-サイトに勤務して以来、全国各地を転々とした。

 勤務地に着任すれば、積極的にその土地に親しみ、人々と交わり、人情に触れ、いくつもの故郷を持ってきた。思い出はいっぱいだ。

 でも、自分が両親や周りのもの育まれた郷里は特別である。そこには、云うに言われぬ、何とも表現できないものがある。それが故郷というものであろうか。

 

父なる母なる日本海と宇野のきれいな砂浜・魚がいっぱいいた東島に育てられた!

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《西の山から眺めた日本海と宇野海岸、集落を挟んで東西に島・岩場がある。物心ついたときから海岸で遊び、泳ぎもした。誰に教えられるまでもなく泳ぎを覚えた。西島は男性的で荒々しく近寄りがたく、潜ると深く恐怖感があった。魚獲りや貝採りはもっぱら東島であった。ここは、深くなく、女性的で丸みを帯びた岩も小さく、潜っても恐怖感がなかった。小学生の低学年のころから東島に行くと、どこの岩場のどの辺にどんな魚がいるかも分かっており、人には言えない穴場を知っていた。見つけたら子どもながらにヤス使って素早く魚をかならず仕留めた。子ども同士で競い合った。それぞれが自分だけの秘密の猟場・穴場をもち胸に秘めて過ごしたものだ。自分を育ててくれた大自然の父であり母なる日本海と東島であった。》

 

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 《子どもの頃は、このような国道もなく、家からすぐに海岸に行くことができた。前は日本海、後は山に囲まれた寒村であった。どこにでも見かける集落であったが、学校から帰ったら夕方まで遊びにふけった。皆で海で泳ぎ、岩場で魚取りをし、真黒になった。山に行っては、時には蜂に刺されながら栗アケビを採り山野を駆け巡った。子ども同士で遊びを見つけて、みんな仲好だった。宿題をどうしたかあまり記憶にないのはどうしてであろうか》

 

  

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 《今は沖合に、砂浜の浸食を防ぐための消波ブロックがおかれているが、子供のころは何もなかった。

 東西に岩場があり、東島・西島と言っていた。漁の季節になると、イワシ、サバの大群が押し寄せた。東西の山頂から大人が上着を振って魚の大群の場所を知らせた。急きょ集合した漁師たちは、急いで浜から船を出し、誘導に従って魚群を囲むように網を打っていった。あまりの大漁で網が破れ、幾重にも網が囲んだ。 

 それこそ浜辺は修羅場と化し、猫の手も借りたいほど、村中が総動員され、子どもも地引網を引く戦力の一つ、手伝った子どもにも公平に分け前があった。夕飯のおかずを子どもながら稼いで、胸を張って食卓に就いた。それはそれはおいしい食事であった。》

 

 

 

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 《浜辺の幅はかなりあったように記憶している。船小屋が連なり、常に船には網が積まれて出漁できる態勢にあった。今も海岸の砂はきれいで細かい昔のままだ。

 日本の社会の高度成長とともに沖合での大量捕獲型の漁業に代わって、船小屋がなくなり、地引網もなくなった。

 大東亜戦争に負けて、戦後間もないころは、物がなく、物々交換の時代があった。砂浜に日本海の海水をまき濃縮した海水を時間をかけて釜で炊き真っ白な塩を製造したこともあった。子どもながら浜辺を行き来し塩づくりのお手伝いもした。どんなに時代が移り変わっても、どんなに変貌しても故郷の宇野海岸は時代を刻んでいる。》

 

 

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《帰省のたびに、必ず朝早く散歩することにしている。足跡一つない砂浜は子どものころを思いださせる。

 打ち上げられた貝がらは宝物であった。釣りもした。魚もとった。泳いだ。年上の兄たちを見習って見ようまねようで覚えた。この浜辺は、子供のころの遊び場であり、すべてが学習の場であった。

 夏が終わるころは、日本海は大きな波が立ち出す。上級生に交じって、家の板切れをもって波乗りに挑戦した。大波にのまれて苦しいこともあった。今のサ-フィンを見ると板を使った波乗りが昨日の出来事のようによみがえる。自然が人を鍛え、冒険心を生み、挑戦をうながしてくれた。まさに父であり、母なる日本海であった。》