情報・連絡紙いろいろ(1) 皆から喜ばれる手づくり情報・連絡紙!

関本先生のガリ版刷りの学級通信!

 昭和50年、はるか38年前だった。二男が小学4年の頃だったが、石川県小松市に所在する第6航空団に勤務していたころ、毎日、担任の関本孝二先生がガリ版で「学級通信」を発行されていた。

 実によく、毎日の子どもたちのこと、今学習していること、これからの予定などがびっしりと情報記事が掲載されており、子どもより親たちが熱心に読んだものである。

 たまには、子どもを通じて感想文を求められたりしたこともあった。

 こうした縁があって、関本先生とは私が全国各地を転任し、退官後浜松に居を構えてからもお亡くなりになるまでご厚誼をいただいた、忘れがたい先生のお一人である。 

 時あたかも昭和40年から50年代にかけて《学級通信》が盛んであったように記憶している。

 

横のつながりを重視した情報連絡紙の発刊!

 当時、人事幕僚として、自衛隊の組織活動の中に、従前からある「基地新聞」とは一味違った、縦より横の線を重視した「だより的な情報連絡紙」を取り入れられないかと模索していた時、《これだ》と胸に響くものがあった。

 その後、自分なりに資料収集し、研究検討を行って構想案を持ち、指揮官を補佐したものである。

 航空警戒管制団司令部の人事部長の時は、人事、教育訓練、厚生を担当したので、手書きの「服務だより」、「訓練だより」、「厚生だより」を発行し、各種の情報・記事を掲載し、服務意欲の高揚、訓練内容の向上、隊員の福利厚生面の改善等、問題点や指導の在り方、今後の方向などを示唆して喜ばれたことがあった。

 特に、前向きな革新的な活動や成功している事例を取り上げ部隊戦力の向上に資することに努めた。

 全部員が一体となって努力した業績により栄えある第3級賞状を受賞した。

 退官後、陸海空の各種部隊が国際支援活動で海外に派遣されたとき、現場部隊の手づくりの「瓦版的な新聞」が好評であったようだ。こうした見聞からも当時はかなりの先取りであったが判断は間違っていなかったと思った。

 

各種の「だより」で情報の共有・連絡紙の役割!

 退官してからは、隊友会浜松支部長として、手書きの「隊友はままつ」を毎月発刊し、情報連絡紙の役割を果たした。現在まで欠番することなく続いており嬉しい。 

 自治会では、「自治会便り」、花いっぱい協同活動では「花だより」、シニアクラブでは「神原会便り」を会長・代表に就いた日から毎月定期的に今日まで発行を続けている。

 

現在の状況・暮らしぶりを主題とした「操縦学生第1期生だより」の編集発行!

 最近、同期生会の会長が順番で廻ってきたので、上番・就任を機会に、全員喜寿を卒業した同期の最大の関心事である「58年前の大空を目指し切磋琢磨した青春時代」と「現在の状況・暮らしぶり」に焦点を当てて編集した「操縦学生第1期生だより」を発行した。

 2年間に3回編集発行してこのたび下番・退任した。