昭和の航空自衛隊の思い出(468)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(3)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
 私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
   先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
    昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
    自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
    矢田次夫元統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
   そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。
2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
  かって、矢田次夫元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
    随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。
 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。

   山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・海上自衛官と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。
 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出・香りにつながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。
❶ 「私の歩んだ道」の表紙

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❷ 揮ごうと経歴

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
❼ 父他界、後に海兵合格

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❽ 故郷を後に旅立つ

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❾ 海軍兵学校に入校

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➓ 初日、決意も新たに

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⓫ 不撓不屈の精神養う

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⓬ 兄との永遠の別れ

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* 次回は海軍兵学校卒業・戦艦扶桑への乗り組み・潜水学校海軍での作戦行動終結

まで

4 今日における読後感想

❶  倉吉中学校時代の矢田次夫元統幕議長は、級長をやり、運動もバスケットで抜群の能力を発揮した。当時の級長は成績優秀かつ性格・行動が優良な者が学校から指名されたものであった。

    また、海軍兵学校陸軍士官学校の合格は極めて難関で、進学校で1名出るか出ないかであった。倉吉中学も同じであった。こうしたことからも陸士・海兵は全国から選ばれた俊英の集団でもあった。学校にとっても海兵の合格・入校は名誉と誇りでもあったであろう。

    戦前のわが国においては、どんなに貧しい家庭や門地に関わらず、成績優秀な少年は軍官学校か師範学校への門戸が開かれており、挑戦することができた時代でもあった。

     創設期の自衛隊現職時代には、陸士、海兵の卒業者の上級幹部が多くおられたので、当時の受験と何段階かの試験の模様については、直接拝聴することがあった。

    また、若い副官時代にお仕えした3人の将官は、陸士、海兵と陸大、海大を卒業されており、色々とお伺いすることがあった。

❷   矢田次夫元統幕議長の海軍兵学校に関する回顧の中で、特に印象深いところは、海軍の士官・指揮官としての養成学校として、徹底した「船乗り」としての修練であったことを強調されている。海洋や大空の自然の猛威は熾烈を極め、千変万化、精神的にも肉体的にもその限界に臨み、それを乗り越えたという自信をつみ重ねる教育であったと述懐しておられる。江田島精神は不撓不屈の精神と必勝の信念であり、海軍精神の真髄はここにあったと言える。

    旧軍における将校教育においても、自衛隊の幹部自衛官の教育訓練もしかり、厳しい任務を完遂するには、それ以上の過酷な訓練の積み重ねがあって成し遂げることができる。人間の無限の精神的、肉体的な力の発揮はやはり普段の継続した厳しい練成ではなかろうか。

    指揮官は、部隊・隊員をしてどこまで練成すればどの程度の練度に達するのか教育訓練指導力・評価判断力を有することが求められる。自ら率先し錬成・体得してその神髄を会得することができるものではなかろうか。

    自分の自衛隊勤務を振り返っても同感である。そのことはどの分野においても言えることではなかろうか。

❸  矢田次夫元統幕議長は、胸の病気を患った兄との永遠の別れを書き留められておられる。若い時代の肉親との別れは深い悲しみを超えたものがあったに違いない。大東亜戦争前後を通じて、当時、結核等胸の病気は不治の病とされたものである。子供もながら大変な苦難の時代であったと覚えている。

    それが敗戦により、連合軍の占領下となり、経済社会が混乱した中であったが、ペニシリンという画期的な医薬品等によっていろいろな病気の回復がなされるようになった。今日の医学の進歩と医療機関の充実は、当時からすると驚異的であった。

 

    

 

 

 

 

 

 

昭和の航空自衛隊の思い出(467)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(2)

1  わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏
   私の自衛官人生において、強く印象に残るおひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)
先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。
   昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。
   自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。
    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。
   矢田統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。

2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」について
 かって、矢田元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。
    随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。
    自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。

 「私の歩んだ道」は、故郷の新日本海新聞社からの寄稿依頼に対して、山陰・日本海で少年期を終えて社会に巣立っていく若い人たちのために参考になればと思い出をつづられている。山陰の片田舎から裸一貫で旅立って、海軍軍人・自衛隊員と44年の防衛一筋を歩まれ、海上幕僚長統合幕僚会議議長まで登り詰められた方の随想であり、当時、故郷の皆さんは非常な関心をもって読まれたとのことであった。本当に積極進取にして誠実謙虚なお人柄がにじみ出ているように感じた。

 私にとっては、この回顧随想に出てくる地名や人名一つとっても故郷の思い出につながるものばかりであった。 元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、確かあったはずなのにどこへ散逸したのか見つかっていない。

❶ 「私の歩んだ道」の表紙

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 揮ごうと経歴

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」

❶ 裸一貫で夢をし実現

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❷ 負けずきらいが性分

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❸ 県下の雄の鼻を折る

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❹ 軍人志願と部活動

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❺ バスケットに熱中

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❻ 残念だった弟の死

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* 次回は海軍兵学校合格、入校・卒業まで


4 今日における読後感想

❶ 矢田次夫元統幕議長の「私の歩んだ道」を拝読しての感想は、昭和15年軍人の制服を着て以来、海上自衛官となり、各級の主要指揮官職を歴任、海上自衛隊のトップである海上幕僚長へ栄進され、創設期・建設期の海上自衛隊の充実発展に貢献されたことであります。最後は3自衛隊自衛官の最高位である統合幕僚会議議長・海将(大将)となり、昭和58年3月退官された。この44年間の国家防衛一筋の人生を歩まれたことは、冒頭の見出しのごとく「裸一貫で夢を実現」の表現は、矢田次夫元統幕議長にぴったりであると思いました。
❷ 矢田次夫元統幕議長は、大正12年(1923年),私は昭和10年(1935年)で一回り上の同窓の大先輩であった。回顧随想の中に、毎日の遊び、魚とり、山での栗拾いなどがでてきますが、子供のころの田舎の情景は、倉吉より奥地の東伯郡高城村と日本海海岸の宇野との違いはあるが、田舎の風景や生活環境等はほぼ同じようなものであったのではなかろうかと思いました。
❸ 矢田次夫元統幕議長は、子供のころから体力に優れ、学校では級長で小学校を卒業しています。中学校に進んだ者はどの村でも1~2人であった。特にバスケットポ-ルで抜群の能力を発揮し、「県下の雄の鼻を折る」は少年時代の負けん気の頑張り少年が浮かびます。
❹ 矢田次夫元統幕議長が倉吉中学校に進学したとき、倉吉の町の学校から入校した人たちに気後れしたと記されています。私も新制中学、新制高校へ進学したとき最初に同じように感じました。まさしく田舎から都会に出てきたような感じであったことを思い出しました。
❺ 回顧随想の中に、田舎で見聞した人々の名前が多く出てきました。郷里の羽合町史は手元においてよく読んでいたので懐かしく子供のころを思い出しました。とりわけ、私が教わった宇野小学校の夏目益雄先生や元羽合町長秋田弥太郎氏の名前を拝見し、故郷を再び思い出しました。



 

花との出会いと感想記(2) 「幸福の鈴」と言われるベビーマラカス(クロタラリア・スベクタビリス)

   今から10年前、平成21年11月、神原町花の会の会員須山さんから「幸福の鈴」と言われている珍しい花種をいただいた。その3日後の11月22日、語呂合わせで「いい夫婦の日」ということであろうか、中日新聞地方版に、「良縁を呼ぶ?マラカス」という見出しで、次のような記事が載ったから驚いた。

   こうしたことから、初めて「ベビーマラカス」という花を知り関心を持っことになった。  話題の花は、「 幸福の鈴」と言われるベビーマラカス(クロタラリア・スベクタビリス)であった。枝や豆殻を振ると鈴のようにカラコロと鳴り、何とも情緒があったこと。ハート形の種は恋の成就や縁結びを表すと子供や若い方に爆発的な人気があったことから、物珍しさもあり、花壇に栽培して訪れた方に差し上げたいと思った。

    そこで花壇の一角に種をまき、花を咲かせ、成熟すると、豆殻つきのベビーマラカスと種を収穫して当時の新聞記事のコピーと合わせて、多くの方にプレゼントしたらどこでも大いに喜ばれたものである。

    今年の秋、地元の小学生の地域探訪で神原町花の会の花畑を訪れた子供達の一番人気は、やはりカラコロと音がするベビーマラカスであった。時代が移り変わってもその人気は抜群であった。豆殻を振ると発する音色は少年少女たちの興味をそそり、心を揺さぶるものがあった。

    一見どこにでもある花木であり、最後は土色ななつた豆殻から小さな黒いハート型の種が詰まっているとは想像もつかない。外見からはごくありふれたもので珍しくもなく見過ごすであろう花木であるが、中身を知っていると、興味をそそられるベビーマラカスである。 ベビーとはよく言ったものだ。花の世界は無限の神秘さがあるから面白い。花の世界でも遊び心が必要ではなかろうか。遊び心は心のゆとり・余裕につながる。人生にも遊び心と心のゆとり・余裕が求められる。花は人生の潤滑油の役目を果たしてくれる。

    それからは、皆さんにベビーマラカスを差し上げるときには、次のような文句を付けて配ったものである。

 「ハート型した話題の珍しい「幸福の鈴」と呼ばれる種だよ!      
べビーマラカス(クロタラリア・スベクタビリス)と言います。花美原会が育成・採集したものです。

   差し上げますので。4月初旬ごろ蒔いて育ててみてください。   神原町花の会(花美原会)」としたものであった。

❶ 中日新聞記事

良縁を呼ぶ? マラカス」  平成21(2009)年11月22日

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《 中日新聞記事の出る3日前に、神原町花の会の会員須山さんから、会長の私に花壇に使ってみたらと、「幸福の鈴」ともばれる珍しい種ですよ、と十数粒いただいた。その後、新聞にベビーマラカスの記事が出たのでとても印象に残っている。次の年から栽培して、多くの方にこの記事を付けてマラカス種をプレゼントした。》

❷ 「幸福の鈴」と言われるベビーマラカス(クロタラリア・スベクタビリス)

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 ハ-ト型のベビーマラカスの種をハ-トに並べてみた

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《  令和元年11月28日撮影 》


 

 

 

花との出会いと感想記(1)  散策で気になったウキツリボク(チロリアンランプ)

 先日、天龍山洞雲寺を参詣し神ケ谷方面を散策した折に、道路脇の民家の垣根にウキツリボク(チロリアンランプ) [浮釣木]が咲いていた。ウキツリボクは、以前わが家の花壇にも咲いていたがいつの間にやら消滅したように覚えている。どうも気になっていたので、昨日車での買い物の帰りに立ち寄って、デシカメに収めてみた。形と色合いが強く印象に残ったのであろうか。-

 みんなの花図鑑などで調べたら、「ウキツリボク(チロリアンランプ)(浮釣木)は6~10月に咲くアオイ科の花。鉢植えに生息するつる性である。

 花の特徴は、葉の脇から長い花柄を垂れ下がらせて、赤い筒状の萼が目立ち、ランプをぶら下げたような形の色の花を咲かせる。そのため、流通名チロリアンランプという。花は黄色だが、膨らんだ赤い5稜形の萼が目立つ。雄しべと花柱(雌しべ)は飛び出している。」とある。

 最盛の花期は終わりであろうが、葉は青々として生き生きとして元気がよかった。人間と同じで植物もさまざまである。こんなことを思いながら植物に関心を寄せた。暇人のやることといえばそれまでであるが、草花に目をやることもボケ防止になりそうだ。じっくりと観察すると日頃見逃したものがよく見えてくるから面白い。

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昭和の航空自衛隊の思い出(466)  元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏の「私の歩んだ道」(1)

1   わが母校(鳥取県立倉吉東高等学校)同窓の第13代統幕議長海将矢田次夫氏

   私の自衛官人生において、強く印象に残るひとりに自衛官の最高位となる第13代統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を挙げる。その理由は、私の卒業した鳥取県立倉吉東高等学校の前身である旧制倉吉中学校から輩出した統幕議長であられた方であったからである。(現在は「統合幕僚長」と称している。)

   先日、わが高校母校の同窓会・東海鴨水会が開かれ、大東亜戦争時に文部大臣になられた母校出身の橋田邦彦先生に関する講演を拝聴したが、戦後における異色の輩出者としては、名将矢田次夫海将を挙げることができる。

    昔風にいえば、旧陸海軍の軍人の最高位の総参謀長・大将の職位を合わせたものであり、米軍式でいえば統合参謀本部議長・大将にあたる職位であること、また、とりわけ、第8代統幕議長を務められた元空将白川元春氏が、かって中部警戒管制団司令兼ねて入間基地司令を務められた折に、副官を拝命する機会を与えられ、親しくご指導を受けたことなどから「統合幕僚会議議長・将(大将)」については、特別の関心と縁があったように記憶している。

    自衛隊の創設、建設期にあたる昭和時代は、統合幕僚会議議長と言えども、総理大臣の毎日の行動が新聞紙上に「安倍日誌」「首相動静」「首相の一日」などの記事において、統幕議長が官邸を訪れるのは就任・離任や国防会議などでたまに名前が載る程度であった。

    今日では、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に対して、毎週、自衛官の最高位にある統合幕僚長をはじめ情報本部長が軍事専門家の立場で、文官と共に首相の元へ報告等で訪れることは日常的となっている。国際軍事常識からすれば、当たり前のことが当たり前に行われる時代になったということであろう。

   矢田統幕議長については、私が航空幕僚監部人事課人事第2班長及び航空自衛隊調査隊副司令のとき、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」が設けられ親しく懇談することになった。とりわけ数少ない高校の大先輩であったことから熱心に話を伺った。
そのことは、2017-02-20 昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流に記した。


2  元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の「 私の歩んだ道」
    かって、矢田元統幕議長から頂いた随想冊子「 私の歩んだ道」は、書斎から見つかり熟読してみた。表紙の裏には、「平成元年3月9日六本木の会合で矢田議長より頂いた」ことが記されている。

     随想冊子は、表紙等含めてA4版36枚で、31編の随想が収められている。郷里鳥取の「新日本海新聞」のコラム欄に毎週掲載されたものである。

    自衛隊勤務のころの随想が多いかと思っていたら、意外に少なく、多くは旧制中学と海軍兵学校へ進んでからのこと、艦隊勤務と戦後の復員業務、厳しい戦後の生活と造船所勤務、海上警備隊への志願から海上幕僚長・統幕議長への道のりがしたためられている。数回に分けて紹介したい。

     元統合幕僚会議議長海将矢田次夫氏を囲んでの記念写真は、どこへ散逸したのか見つからないでいる。

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3 元統合幕僚会議議長矢田次夫氏の軍歴及び自衛隊
大正12年5月鳥取県倉吉市生まれ
昭和15(1940)年12月海軍兵学校入校(72期)
昭和18(1943)年9月海軍兵学校卒業(卒業生625人)
昭和27(1952)年月海上警備隊入隊(1等警備士)
昭和51(1976)年3月海上幕僚監部防衛部長、7月海将
昭和52(1977)年7月佐世保地方総監
昭和54(1979)年2月自衛艦隊司令官
昭和55(1980)年2月第13代海上幕僚長
昭和56(1981)年2月:第13代統合幕僚会議議長。
昭和58(1983)年3月退官、三菱重工業顧問等
平成24(2012)年4月24日死去(享年88)

浜ちゃん日記  晩秋の遠出と御前崎めぐり

    先日11月23日は勤労感謝の日、久しぶりに行事等の予定がないので、息子の車で夫婦して遠出をしてみることにした。藤枝市仮宿の「ざる菊園」を観て、御前崎を訪れて帰った。

 御前崎は、70代ではしばしば訪れていたが、今回久しぶりであった。御前崎漁港のなぶらを訪れ魚店を見て回り食事した後、御前崎灯台に登り眼下に広がる太平洋を見渡した。御前崎海岸では、特に波しぶきが上がる荒々しい御前崎海岸の様子をRAWで写真に収めた。自分の描いた構図で撮ることができたようだ。

 趣味の一つとして、これから暇を見て、じっくりと作品として仕上げて、12月の勉強会に提出することにしている。どんな作品になるやらやってみないとわからない。楽しみのである。

 御前崎灯台は、周辺の禄地化等の整備計画が進められ改修工事が行われていた。来年3月末までには整備が完了するようだ。毎度のことながらやはり一番上に登ってみないと収まらないが、強風と歳のせいか高いところは少しづつ怖くなってきたようだ。それにしても太平洋を一望することができた

 御前崎海岸の一帯は、サ-フィンの好適地であろうか、数か所で愛好者が多数波乗りを楽しんでいた。これまた女性の多いのには驚いた。

    子供の頃、日本海鳥取の宇野海岸で土用波が出てくると、板を使って波乗りをしたことを思い出した。どのくらい波打ち際まで乗ってくるか幼友達と競争したものである。

    時代は変わり、サーフンと言っしゃれたものができたが、用具は異なっても波乗りの爽快さは経験したものでないとその魅力はわからないかもしれない。

    日本海の荒々しさと静かな両面を子供の頃から見てきたので、御前崎の太平洋を眺めて自然の底知れぬ威力と無限の豊かさを再確認したものである。

    灯台へのわずか100mの坂道を登るとき、脚力がずいぶん落ちていることに気がついた。最近歩く量が減ったツケがきたように感じた。

    そんなことで、久しぶりに夫婦で佐鳴湖公園を散策したりした。とにかく歩くことだ。理屈はない。人間も動物も生きる力の源泉は自分の力でどれだけ歩けるかどうかにかかっている。自力で歩けるかどうかで寿命も決まってくる。歳を重ねれば重ねるほど歩くという基本が一番大切であることを感じる。

1 なぶら 海遊館

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 2 御前崎灯台 

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3 御前崎海岸

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 サ-フィン

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浜ちゃん日記 久しぶりの佐鳴湖公園めぐり(2)

 11月24日午前、佐鳴湖公園を夫婦でウオーキングした。曇り空であったが時折日が差してきた。ウオーキングの人々が多く行き通った。いかに多くの市民がこの佐鳴湖公園を利用しているかがよくわかる。浜松市民の格好の憩いの場となっている。湖があり、野鳥あり、四季折々の花が咲く樹木ありで、自然の宝庫と言って良いほど優れた湖のある公園である。
 北岸の管理棟でいただいた地図を見ながら散策したら何日もかかるぐらいである。
 自宅から出かけ車で富塚の北岸管理棟の駐車場に置いた。家を出てから帰宅まで約3時間ばかりであったが、約6kmを散策したことになる。至る所で立ち止まり、野鳥を観たり、紅葉の樹木を眺めたりでのんびりと見て回った。

   このマップはよくできており関心した。次回からはマップを手にして、散策することにした。きっと一層楽しい散策ができるであろう。 

1 佐鳴湖公園の風景

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《 令和元年11月24日撮影 》

2 佐鳴湖公園の樹木と野鳥のマップ

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❶ 全般

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❷ 北岸エリア

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 冨塚花見台~坂下駐車場エリア

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❹ ひょうたん池、時計塔エリア

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❺ 北岸管理棟~東岸桜通り駐車場

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