わが趣味活動(44 )  2019第30回浜松フォトフェスティバルへの出展

   2019第30回浜松フォトフェスティバルが、5月20日午後から5月26日までクリエ-ト浜松で開催される。出展数は全部で約280点、私も1点出展した。本日は午前9時までに会場へ集合し、東部写楽会の皆さんと一緒に展示作業を行った。

 明日は前段に会場へ詰めることにしています。合間を見て全部をじっくりと見て回ることができるので楽しみです。他人の作品を観るといろいろなことを学ぶことができるからです。多くの方が写真展に訪れてご観覧くだされば嬉しいですね。

 2019第30回浜松フォトフェスティバルのパンフレットの表紙

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❷ 浜松写真連絡協議会 会長 丸井敏郎氏の挨拶

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 《 バンフレットから 》

➌ 2019第30回浜松フォトフェスティバル実行委員会 委員長 木田敏信氏の挨拶 

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 《 バンフレットから 》  

 

 

 

 

 

昭和の航空自衛隊の思い出( 442 ) 高射教導群創立50周年記念前夜祭・懇親会に参加して

  今回、高射教導群創立50周年記念前夜祭・懇親会に参加した。昭和の航空自衛隊の思い出と関連し認めることとした。

   5月18日夕べ、ホテルクラウンパレス浜松において、浜松基地所在の高射教導群の創立50周年記念の前夜祭・懇親会が行われた。教導高射隊創設当時のOBとして出席した。見渡す限り教導高射隊創設当時のOBはあまりいなかったように見受けた。当時一緒に仕事をした人事班員の花水浩氏も出席し旧交を温めることができた。

   高射教導群の沿革は、パンフレットのとおりである。昭和44(1969)年浜松の地で教導高射隊が編成完結された。3年後の47(1972)年3月、初代総務班長伊藤弘3佐の後任として、第2代総務班長として着任した。同年7月指揮幕僚課程の選抜試験に合格したため、幹部学校付となり、わずか4ケ月にして転任した。

 在任期間は極めて短かったが、防衛庁長官直轄部隊の総務人事担当として、斬新な服務指導計画の制定など総務人事業務に関し、思い切って活動することができたので、何年間も勤務したような気分であったことを覚えている。

 また、部隊創設以来、隊司令を除きCS卒業者及びCS選抜試験の合格者は初めての事であったことから本当に短期間とはいえ、隊司令はじめ皆さんに信頼と期待を寄せていただいて業務を円滑に遂行できた。今日47年の歳月を経ても当時のことが鮮明に記憶に残るほど忘れがたい部隊勤務であった。

    高射部隊とは、かって要撃管制幹部として皆岡山ADDCサイトにおいて、高射部隊・第1高射群の指揮所運用隊が所在し高射幹部と一緒に作戦運用室で勤務し、官舎も同じところであったことから身近な親しい仲間の感じであった。したがって、総務人事幹部として着任しても全く違和感がなかった。

 前夜祭は、50周年の祝賀にふさわしく、準備周到にして整斉円滑に進められ祝賀ム-ドに包まれる中に、凛とした精鋭部隊らしいものがあった。企画・運営・連携及び接遇など抜群であった。

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❶  主催者挨拶 高射教導群司令 日高芳浩1佐

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 ❷ 来賓祝詞 第3代高射教導隊司令 高𣘺健二氏
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航空総隊司令官の祝辞・メッセ-ジ

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➌ 祝杯 高浜会会長 田原克彦氏

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 ❺ 納杯   高射教導群副司令 二宮啓彰2佐

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山門の人生の教示  うかうかと60年 あれよあれよと80年

   15日は菩提寺天龍山洞雲寺にお参りし、お墓に新しい花を供した。今月は掲示板に「うかうかと60年 あれよあれよと80年」とあった。84歳を迎える年になって、まさしくそうであると実感するものがある。人生は一回きりで、やり直しはない。

 年が過ぎるのも速いし、歳を重ねるも、「光陰矢の如し」である。「あれよあれよ」は実によく言い表したものである。毎日何か目的をもって行動するように努めている。その点、今はやらねばならないことがいっぱいあり忙しいが、数年後はどうなっているであろうか。

 「歳をとる」とはこうゆうことかと日々感じている毎日である。 また、超高齢化は人生100歳時代の到来が話題となってきた。どんな時代となるのであろうか。

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《 浜松市西区神ケ谷町天龍山洞雲寺山門の掲示 》 

昭和の航空自衛隊の思い出( 441 )  「幹部学校記事」と「鵬友」に感謝して破棄処分(2)

 自衛隊在任間大変お世話になった「幹部学校記事」と「鵬友」は、全部を破棄処分するのに3日間かかった。頑丈な留め金を外すのに結構力を要した。体力があるうちに始末できてよかったと思っている。

 印象に残ったことを書き留めることにした。

❶ 航空自衛隊「幹部学校記事」創立20周年記念特集 

  昭和49年11号(第17巻第4号) 

    記事編集委員長美田裕次郎空将補のもと、幹部学校創立20周年を記念しての特集号である。成人を迎えた幹部学校が航空自衛隊幹部教育のメッカとして、いよいよその重要さを増す中で本誌の果たす使命が倍加ししっあった。 

 あらためて、再拝読してみて、航空自衛隊の創設期と建設期の状況が手に取るように記述され、よく理解できる内容であった。この一冊だけはもったいないので当分手元に置くことにした。

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❷ 紙上ケ-ㇲスタディ 「君ならどう考える」

 第6航空団司令部人事班長のとき、尉官クラスを対象に隊員指導、とりわけ服務指導の向上を目指して「服務指導研究会」を設け、毎月実際の事例を取り上げて課題を付与し、若手幹部の研究会を指導した。

 また、西部警戒管制団司令部人事部長のとき、幹部教育の一環として,「鵬友」の紙上ケ-ㇲスタディ「君ならどう考える」などに積極的に参加するよう、れい下部隊長にお願いした。各部隊長のご指導もあり、毎回応募者は全国で断トツとなり、幹部の士気と能力向上に資するものがあった。優秀者の回答が3編ほど掲載されるとともに応募者名が発表されたものである。

 ちなみに、一例として、昭和59年11月号(第10号第4巻)を取り上げてみた。

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紹介の回答3編
①   1尉 瀬川康彦(83空)

②   1尉 斎藤弘助・若山 登・野中直久・多胡弘也(硫黄島基地隊)

③ 1尉 林 幸生(西警団) 

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➌ 新鵬友の購読者 昭和51年3月

   鵬友は、逐年購読者が増加し、発刊の趣旨である「航空自衛隊幹部の識能の向上に資するため、広く内外の軍事研究論文を紹介するとともに、相互啓発の場とする」が実現していった。特に若手幹部の購読が増え、紙上ケ-ㇲスタディ「君ならどう考える」にみられるように、文字通り身近な「鵬友」となっていった。 

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❹ 指揮幕僚課程の受験・合格と自己啓発

 初級幹部のころから「幹部学校記事」を愛読し、指揮幕僚課程の選抜試験問題や先輩たちの受験合格記などを読んで、当時雲の上のことであったCSに奮起して挑戦することとなった。階級と年齢制限で1回だけ受験の機会が訪れた。幸い40名の一人に選ばれ課程を卒業することができた。1年間の東京市谷における幹部学校の教育は恵まれた環境であった。

 私にとって、自己啓発の基となった「幹部学校記事」と「鵬友」は、幹部自衛官としての絶え間ない勉学の道しるべとなった。自衛隊在職中は、軍事はもとより各分野の著書を購入した。物事の見方、考え方など幅広い視野で対処するようになった原点は、「幹部学校記事」と「鵬友」にあったように思う。

 今回、30年以上持ち続けた多数の「幹部学校記事」と「鵬友」を破棄処分することができた。深い深い感謝の念を込めて「ありがとう」「ありがとう」と一枚一枚を破棄処分した。
 

 

神原町花の会(花美原会)(384) ポピ-畑は6月2日整理、ポピ-花摘み出来ます

  神原町花の会(花美原会)の管理する花畑では、今日も多数の幼稚園児が見学する姿が見られた。6月2日午前、協同活動によつて、ポピ-は全部撤去整理されます。まだまだポピ-の無料花摘みが出来ます。

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 《 令和元年5月16日午前の神原町の花畑 》

昭和の航空自衛隊の思い出( 440 )  「幹部学校記事」と「鵬友」に感謝して破棄処分(1)

 退官30年にして、在職当時に購読していた大量の部内誌の破棄処分に着手した。家族には万が一の時は、絶対にそのままごみとして出さないで必ず破棄するよう厳命していた。自衛隊在隊間に関わる物はいっさい、日頃からまかり間違っても絶対にごみとして処理するなと家族に申し渡していた。

    特別に秘密事項が掲載されていたわけではないが、他に迷惑をかけず、自分のことは自分で処理しておきたいとの思いが強かった。自分の手で逐次直接に処理することができて一安心した。「幹部学校記事」「朋友」もその一つである。

    「幹部学校記事」は、幹部学校の沿革によると、有沼源一郎校長時代の昭和35(1960)年6月10日第1巻第1号が発行された。刊行の目的は、「幹部学校における研究成果並びに部内外の軍事研究論文等を紹介し、幹部自衛官研さんの資とする」とし、最初は季刊であったが、隔月発行となった。

 購読に至った経緯等は、はるか56年前に遡ることになる。昭和35(1960)年2月部内幹部候補生選抜試験に合格し、幹部候補生学校の課程を卒業し、見習幹部勤務を経て、36(1961)年2月3等空尉官に任命された。職種は希望通り要撃管制に指定され、要撃管制英語及び術科幹部課程を卒業し、同年 9月晴れて初任地は千葉県の房総半島の南端にある峰岡山・第44警戒群監視管制隊に勤務した。

 最初は日勤で実地の要撃管制訓練に励み、実任務に就ける0Rの資格を取得した。その後は監視管制隊の小隊に属し、24時間の交代制勤務についた。初級幹部として何とか一人前になって、多少とも精神的な余裕ができたのか、航空自衛隊幹部学校幹部会が発行する季刊の「航空自衛隊幹部学校記事」を購読するようになった。

 初購読は、昭和38(1963)年3月・5巻第4号であった。5巻ということは創刊の昭和33(1958)年から5年目である。

 幹部学校記事は、新しい時代の進展に伴い、昭和50年度から発刊の趣旨及び誌名が変更された。航空自衛隊の発展と購読者の増大に伴い、当初の幹部学校と部隊等の幹部をつなぐ「パイプ」となるという性格から、航空自衛隊幹部全体の研さんと相互啓発に資するという役割が主となるべき趨勢にあったこと、部隊等からもこのような線に沿った発行を希望する声が聞かれるようになった。その間の状況は、幹部学校記事「創立20周年記念特集号」に記されている。

 上記の新しい事態に対処するため、発刊の趣旨を「航空自衛隊幹部の識能の向上に資するため、広く内外の軍事研究論文を紹介するとともに、相互啓発の場とする」に改められた。また、誌名も親しみやすい「朋友」として、新年度から装いも新たに発足することになつた。

1   幹部学校記事と鵬友についての所感

❶   愛着があった部内誌と購読のきっかけ

   人生の主活動期であった航空自衛隊勤務と生活において、幹部学校記事及び鵬友が自己啓発に大いに役立ったと思っている。したがって、在隊間はもとより、退官30年間大切に保存してきた。他人には紙くず同然のものであっても、自分を育ててくれたとの思いと感謝のいろいろなものがあって断捨て難い強い愛着があったのである。また後輩たちの中で欲しい人があればあげたいと思ってきた。

    「幹部学校記事」によると、創刊当初は購読者は約800名、5年目の昭和38(1958)年ごろの読者数が約2,000名とあり、当時勤務していた第44警戒群はADDCサイトとして要撃管制幹部を中心に幹部が多数いる中で、購読者15名の一人であった。当サイトは各職種で新進気鋭の幹部が揃っており、後年の航空自衛隊を担う幹部が輩出していった。昭和50年3月には約4,500名と記録されている。

    どんな事情で購読するようになったか定かでないが、かすかな記憶によると、昭和36年ごろ整備学校で2等空曹で部内幹候を受験する頃、一緒に勤務していた同年配の松下泰男事務官が手にしていたのを見て触発されたように覚えている。

    幹部候補生の課程と術科教育を終えて、第一線部隊で実勤務につき、安定した頃にようやく購読者となり愛読者となっていったようだ。当時の第44警戒群には若手の優秀な幹部が多数いたことから強い刺激を受けたようにも思える。松下泰男君は向学・向上心が旺盛で後年上級事務官として栄進した。

自己啓発と充実した自衛隊勤務・生活
    幹部学校記事は、若い頃から熱心な読者の一人であった。なんでも吸収してやろうと向上心と探究心が旺盛であったせいか、内外の軍事に関する論文や関連著書のほか、他分野の資料収集も行い、自己研さんの資としたものであった。

   こうしたことが幹部自衛官として自衛隊勤務と生活を充実、楽しくさせてくれたものであった。その分書籍類が増えて、転勤のたびに、重い荷物が多数となり、お手伝いのみなさんに大変お世話になった。

若手幹部に推奨し課題研究に参加

    後年、警戒管制団司令部人事部長になった時は、教育訓練も担当したので、自分の経験からも、隷下部隊の初級幹部に対して幅広い視野を拡大するため、鵬友のケーススタデイなど課題研究に積極的に応募を推奨するなどして資質能力の向上を図ったことがあった。

  時代を超えた優れた論文等の掲載

    今回、破棄の都度中身を確認したが当時空自で活躍された方々の論文も多く、タイトルと筆者を見て懐かしく感じた。破棄処分は同時代と決別する感じであった。  

   特に若い時代に優秀論文で傑出した人たちは、最後は将官として活躍された方も多く皆さんとは交流があっただけに一層懐かしく思った。

    隊員指導に関するものは、ただ拝読するだけではなく、これは使えそうだと思った事項は、現場で実際に活用する実践方式を取り入れ、試行してみたものである。さらに自分のアイディアを加味して実行して成果をあげたこともあった。

❺  紙質からみた昭和と平成の差

    同じダンボールに保管したが、平成の時代は格段に紙の質が向上したことに驚いた。昭和時代のものは紙質が落ちて、全体的に経年劣化し変色してきたことである。紙製造技術の進歩と時代を反映したものといえる。

   破棄作業で、解体するのにホッチキスが使われたものは、これを取り外すのに苦労したが、平成に入ってからは糊付けに変わっており楽になったことである。製本技術の進歩向上を実感した。

2   幹部研さん誌  

❶ 初購読「幹部学校記事」

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 初号の鵬友・第1巻1号

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➌    最後の購読「鵬友」・第15巻第6号

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《 「ありがとう」の感謝を込めて記録にとどめることにした。》 

神原町花の会(花美原会)(383) 園児たちが花畑で遊ぶ

 昨日は天気も良し、夏日のように暑くなってきた。神原町花の会(花美原会)(会長相佐末吉氏)の管理する花畑に先生に連れられて園児たちが花見をしている姿が見られた。元気にのびのびと動き回る姿が静かなポピ-畑に躍動感を与えてくれた。

    神原の里に、花畑を創設し10年間の活動を経て、平成30年4月に相佐会長にバトンタッチした。一つの形になったものが継続してさらに発展して運営されていることに喜びを感じている。まさに継続は地域活動の輝きにつながる。

    今日は早朝曇り空であったが、雨雲がやってきて強い雨が降り続いている。残念な一日となった。明日から快晴が予報されており、16日ごろは地面のぬかるみもなくなり花摘みに最適となるのではなかろうか。

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