自衛隊家族会(5) 平成29年度浜松自衛隊家族会総会と家族会

 5月14日(日)平成29年度浜松自衛隊家族会定期総会、次いで浜松市自衛隊家族会総会懇親会が浜松市駅付近のプレスタワ-で開かれ、会員として参加した。

1.自衛隊家族会

    本年1月公益社団法人全国自衛隊父兄会は「公益社団法人自衛隊家族会」となった。下部組織の浜松市自衛隊父兄会も浜松市自衛隊家族会となった。

自衛隊家族会の組織は次のとおりである。

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《 浜松自衛隊家族会は、会員数においても静岡県下で最も多い組織である。》

2.浜松自衛隊家族会

❶.浜松自衛隊家族会総会

 浜松自衛隊家族会の総会は、副会長小林三二氏の司会のもと、開会の辞は副会長吉澤幸代氏、次いで、会長志賀勝氏の挨拶、表彰(永年功労・役員功労で7名が表彰された。)議事においては、報告事項では新入隊員家族の入会状況などが報告された。議案は会則の改定、28年度事業報告・収支決算報告、監査報告、29年度事業計画・収支予算案、役員の改選が上程され、満場一致で議決された。

❷.総会の状況

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 《 総会は、副会長小林三二氏の司会のもと整斉と円滑に進められた。》

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《 浜松自衛隊家族会会長志賀勝氏の挨拶、新生家族会のスタ-トに際し、今年の活動の大きな柱は家族支援であることから、その在り方について形づくりをしていきたいと述べられた。子供たち自衛官が、安心して任務に精励できる環境づくりをすることは、親としての大きな役目であることを強調された。 》

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 《 総会風景 》

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《 会長表彰受賞者を囲んで浜松自衛隊家族会の記念撮影 》

❸.家族支援活動のあり方

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❹.参加所感

 志賀会長はじめ役員の皆さんの一生懸命のご尽力に頭が下がる。わが国の安全保障や自衛隊に対する国民意識の高まりの中、本年度の新入隊員等の状況からするともう少し家族会へ加入者が増えてほしいと思った。でも14名の入会者は素晴らしい。

 家族会というネ-ミングがよい。わが子や孫を送り出している家族がしてやれる最高の支えは家族会に属するということであるように思う。この精神的支えと一体感が何物にも代えがたいものであるからである。

 私が現役時代は、30年にわたって、親が、親が亡くなったら長兄が父兄会に継続して入って支えてくれた。入会は親や兄が自ら決めたようで後で知った。入隊した当時の隊員はそれほど入会の意義を感じないかもしれないが、一本立ちして隊務についたとき、親の思いを感ずるようになるものである。

 家族会入会は、家族として、個人としてできる最高の支えであるだけに、お勧めしたい。自衛隊に勤務する子供や孫にとって、家族ができる最高のものは励ましの言葉でもない。家族会に入って、わが子を誇りとすることではなかろうか。家族会入会は、誰から勧められるものでもない、国家国民のために任務に就く子供への家族の誇り「心の証」のようなものではなかろうか。

    現役時代に、わが子が自衛隊に入隊した。当然のごとく父兄会に入会した。特に、本人に父兄会に入っているよとは言ったこともないが、会員であることは知っているであろう。その息子も30年余勤務してきた。無事に隊務を果たしてほしいと願っている。家族会で支える一体感、これが家族・家族会というものではなかろうか。

自衛隊家族会について

❶.自衛隊父兄会の名称・信条変更に至る理由・経緯

 自衛隊父兄会が「自衛隊家族会」として名称・信条変更に至った理由・経緯は、平成28年6月法人創立40周年記念式典における伊藤会長の式辞に述べられているので紹介しよう。

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《 平成28年7月15日・自衛隊父兄会防衛情報紙「おやばと」第427号の切り抜き 》

❷. 自衛隊家族会の「私たちの信条」

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《 家族会の「私たちの信条」は、簡潔明瞭にして、日常生活における信条でもあり、活動の指標である。》

 

❸.自衛隊家族会のゴロマ-ク

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《 自衛隊家族会を現わす、優しく温かみのあるゴロマ-クである。》

❹.おやばと

 公益社団法人自衛隊家族会が発行している機関紙「おやばと」には、自衛隊の状況などの記事が掲載されており、特に〇Bの回想記、情報分析は圧巻である。隊友会の「隊友」の部隊勤務の体験を踏まえた〇Bの軍事情勢の分析、朝雲新聞社の「朝雲」の三つを読んで一般紙の記事を読めば、国際情勢、外交・安全保障、とりわけ軍事に関する認識、状況の判断は一歩踏み込んだものとなり、自分なりの見方、考え方も持つようになるであろう。

 新聞を購読して読むのが一番であるが、多くはネット等でも概要を知ることができるようになった。

 【 次回は、浜松自衛隊家族会総会に引き続き行われた浜松市自衛隊家族会総会懇親会に触れることにする。]

 

わが趣味活動(31)  浜松写真連絡協議会会員写真展始まる

 パソコンのマウスが不安定で、文章の作成などが円滑にできなかったが、新品のマウスとマットにしたら安定するようになった。

 今日は、早朝から小雨がぱらついていた。洞雲寺を訪れ墓参りをした。静寂な境内にしばし心を静めた。帰りにポピー畑に寄ってきた。朝夕は花畑の状況を確認のため訪れている。多数の方が訪れポピー花摘みをした割には、依然として 全体的に花色が全体を覆っている。

 本日・5月15日(月)から5月21日(日)までクリエ-ト浜松において、浜松写真連絡協議会会員写真展が始まった。午前9時から出展作品の搬入・展示作業に参加した。

 本展には東部写楽会は各人1点を出展した。作品展示作業の概成後、全部を観て回ったが、先輩のみなさんの素晴らしい作品に引き付けられた。一般の多数の皆様のご来場をお願いいたします。 

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《  浜松写真連絡協議会会員写真展のはがきの一部 》

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《 平成29年5月15日 神原町花の会の管理する花畑 》

昭和の航空自衛隊の思い出(424) 指揮統率と宮下語録(1)

    航空自衛隊入隊の昭和30年から昭和の時代において、語録といえば、創設期の第2代航空総隊司令官島田航一空将(海兵55期・海大)の「幕僚準則」及び第10代航空総隊司令官鏑木健夫空将(陸士51期)の「鏑木監察」に関連する「特命総合観察における鏑木語録」が有名である。

 その細部は、2015-08-09昭和の航空自衛隊の思い出(165)「島田航一元総隊司令官の幕僚準則」及び、2016-01-10昭和の航空自衛隊の思い出(225)「鏑木健夫空将と鏑木語録」において取り上げたので省略する。

      航空自衛隊創設期における随筆的なものでは、航空自衛隊幹部学校記事に固武二郎将補(陸士48期・陸大60期)が執筆された連載ものを愛読したものであつた。くだけたやわらかい表現で、実に心に迫るものがあった。今でも強く印象に残っている。

    空幕人事課人事課に勤務した当時、特に印象に残ったものでは、空幕人事教育部長に就任された宮下裕将補(防大3期)の「宮下語録」であった。宮下部長は、私が西警団司令部人事部長の時、同じ春日基地で第2高射群司令として俊腕を振るっておられた。

    「宮下語録」は、宮下将補が、前任地の西空隷下の第2高射群司令として勤務されたとき、折々に発言されたものを群本部の幕僚がまとめたものである。特にタイブ整理したものではなく、幕僚が書き留めたものと思われる。表現の仕方はともかく内容においては、ほぼ私の考えと同じであるように思った。

    航空自衛隊には名将といわれる方々が多かったが、訓示といった形ではなく、上級指揮官が日常勤務間に発せられたものを記録されたものは多くあった。それらは幹部教育などの講話の要旨の形で配布されることが多かった。

 宮下語録は300項にわたるもので、その都度のものを、時系列的に収録したものと思われる。航空自衛隊の指揮官と指揮統率、部隊と部隊運営、部下隊員と指導というものを簡潔な言葉で現わしているのでその一部を取り上げてみた。

 宮下空幕人事教育部長は、その後、西部航空方面隊司令官、統合幕僚会議事務局長、次いで航空総隊司令官を歴任して退官、しばらくして、故郷に役立ちたいと香川県善通寺市長として、平成6年(1994)年~22(2010)年・4期16年にわたって市民本位で職員削減や財政健全化を進め活躍された。実に豪胆な人柄で郷土の市長ヘ転進されたことがよく理解できた。平成26年逝去された。ご冥福をお祈りいたします。

1.食事と寝る

〇 演習時に「メシ」をやかましく言うのは、自分が食べたいのではなく、兵に温かいものを食べさせてやりたいからである。

〇 自分の家庭はなぜ良いか。例えば、温かい弁当を奥さんが作るからである。群で射撃(冬期)を実施する場合等も、より暖かいものがなければならない。

〇 雫石事件の場合、陸自は1時間以内に幕舎を設置し、通信網を構成し、湯を沸かした。

〇 戦いの原動力は、食事と寝ることである。

〇 有事、幹部の判断力は、充分寝ることによって生まれる。

〇 演習行動に合わせて喫食させることが大切で、喫食時間に合わせて演習行動を計画するのは一考を要する。

2.先任空曹

〇 群の先任空曹は群司令の分身である。

〇 先任空曹は、特技を越えて全人格的にも空曹の鏡であるべきだ。

〇 先任空曹は、隊員の立場で福利、厚生、幸せを考え隊長に助言することが大切である。

3.   空曹

〇 現場は空曹が取り仕切るようにすべきである。

〇 曹長が幹部の言いなりになっているようでは隊員の希望はない。

〇 全人格的な指揮能力を空曹につける必要がある。

〇 隊務運営の中核は、曹長、1曹である。

〇 旧陸海軍では、隊員指導は下士官がイニシャチブを持っていたではないか。 

4.内務班長

〇 内務班長は隊規の根幹である。

〇 内務班員は、内務班長を見て育つ

〇 薫育内務班のモット― 「明るく 厳しく 燃える」

5.  現場

〇 指揮官は現場を見よ。任務を判断せよ。

〇 現場を知らないで指揮することは恐ろしい。

〇 現場主義に徹し、現場を一日一回は、見るものを見る目を養うこと。

〇 一日一回は現場を回り、現場の変化を確認し、それに基づくマネ-ジメントをせよ。現場の方向が将来を決める。

〇 管理は何によって全うできるか。それは現場で成り立っている。ホッツキ歩くことである。

〇 経営者は、現場をよく見て回らないと経営が成り立たない。

〇 経営の成否は現場にある。自衛隊もしかり。

〇 日本の会社は、現場がしっかりしているから成り立っている。

〇 現場主義でリアルに物事を考えよ。

〇 人心の把握が現場指揮の最大の務めである。

〇 現場に踏み込み、隊員の身になって指導せよ。

〇 現場のものが「何を考え」「何を悩み」「何に困っているか」知らないと改善点等が見えない。

〇 現場の者が案外現場を見ていない。.

 

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《 宮下語録の一部 》

昭和の航空自衛隊の思い出(423) 電算機の威力と要員の養成

 昭和43(1968)年ごろ人事幹部になりたてのころ人事管理に電子計算機の導入が始まっていた。幹部普通課程(soc)でもプログラムの作成の基礎と実習があった。人事管理面での電子計算機の活用は、山根勝巳(元航空警務隊司令・将補)、川又喜代治(部外9期・元航空警務隊司令・将補)、利根川幸夫(部外11期・1佐)の人事部門の大先輩がその導入と運用に精魂を傾けておられたように記憶している。その後、白川新(防大8期・元中警団副司令・将補)の活躍が印象に残っている。

 空幕人事課人事第2班長に就任した時、中央業務隊の電算機処理科長の菊池孝夫3佐(部内35期・2佐)が俊腕を発揮し、要員の養成に熱心に取り組んでおり、この分野は先行して施策を講じるべきだと判断した。

 将来の電算機の全国ネットワ-ク網の構成及び発展の基盤となる空曹要員の養成が必要であると判断した。そのため優秀な人材の宝庫であった空曹候補学生出身者を毎年、所要のプログラマ-要員として配置することにした。

 今日の発展で見るごとく、昭和の時代の布石は、数年を経ずして、平成の時代に入り、飛躍的に機能を発揮するようになった。空自における電算機の充実発展の神代の時代を知るものとして、営々として組織の発展と要員の養成に尽力された諸兄の活躍が忘れられない。

 

昭和の航空自衛隊の思い出(422) 自衛隊勤務に対する両親の見守りと両親への報恩

1.   息子の自衛隊勤務についての両親の誇り

 昭和30(1955)年1月の陸上自衛隊への入隊、同年6月航空自衛隊第1期操縦学生としての入隊にあたって、父は同行し、米子駐屯地及び防府南基地の状況確認と凛々しい制服姿を見て帰っていった。末っ子の独り立ち人生の出発点を自分の目で確かめて安堵したことであろう。

    当時は若かったせいか、何の恩義も感じなかったが自分が子の親となってみて、両親の心情が痛いほどよくわかるようになった。父親と入隊先まで一緒であったから当時の列車は石炭であり、車内で長い時間を過ごしたであろう。どんな話を交わしたであろうか。

 結婚するまでは、休暇のたびに帰省し、両親と過ごし語らうことに努めた。特別な助言はなかったが、近況報告に対して、いつの時代もうなずきながら微笑んで見守ってくれた。

 両親には、わが家の先祖のこと、親戚関係のこと、両親の子供時代のことなど積極的に尋ねて知ることができた。両親のもとへ手紙を、定期的に書いていたように記憶している。

    結婚して、家庭を作ってからは.子供達を連れて帰省した。孫の顔を見てその成長ぶりに満足そうであった。

 生まれ育った故郷の集落では、支那事変・満洲事変・大東亜戦争を通じて、青年の多くが軍務に服し戦死者も出たりしたが、多くは無事に帰還した。村中で軍隊での最高位は大尉(1尉)であった。戦後、こうしたことから昭和の時代は軍隊経験のある方が多かっただけに、軍隊組織について多くの人が知っていた。

 自衛隊入隊は、だれからの勧めでもなく自ら進んで志願したものであった。両親は、私の選択した進路を見守り、自衛隊の勤務を心から誇りにしてくれた。この精神的な家族の支えは何物にも代えがたいものであった。一方、私も両親が農業に精を出し一生懸命の実直な生き方を尊敬していた。

 やがて、わたくしが幹部候補生となり、幹部自衛官として活躍していく様子をひそかに誇りにしてくれていたように感じていた。    

2.    陰でひたすら子供を支えた母

 母は、1尉のころ昭和49(1974)年4月82歳で死去した。戦後の苦しい時代に、自家製塩を担いで山奥の集落まで出かけて物々交換でコメを手に入れて食べさせてくれたことがつよ強く記憶に残っている。

    指揮幕僚課程学生時代に千葉県市川市の官舎に20日ほど滞在し、親子の生活をしたのが最後であった。私の家族と一緒に生活しどんな感想を持ったであろうか。今にして顧みると、もっと親孝行しておけばよかったと悔やまれたが、人生とはこんなものであるのかもしれない。

3.  地域社会に奉仕を続けた父

 父は、3佐のころ、昭和51(1976)年7月83歳で亡くなった。温厚で若い時代から周りから推されて、村の指導者となっていた。養蚕組合長、村会議員・教育委員や議会副議長を務めた。老いては老人会の副会長をして、終始みんなに役立つことを積極的に行っていたことが強く印象に残っている。

 戦後の厳しい時代、他所で出されたおいしいものや珍しいものは、手を付けず必ず持ち帰り子供たちに与えてくれたことが強烈に記憶にある。

 浄土真宗の熱心な信徒で、朝はお経をあげるのを日課とした。質素と感謝を旨とした生活信条を貫き通した人格者であった。

    妻は、私が歳をとればとるほど「父親にそっくりだ」という。顔相はそうであろうが、性格や物事の考え方も同じようだ。自衛隊退官後、今日にいたるまで地域の諸活動等に参加したりするのは血筋のせいであろうか。因縁というものであろうか。

4.  孝行したいときには親はなし

 2佐に昇進し、司令部人事担当班長・教育担当科長・人事部長となったころには両親に物心両面にわたって孝行できる年齢となったが、すでに両親とも他界しており、昔からよく言われてきた「孝行したいときには親はなし」であった。、

    生前、人並みに家庭を築き、現職に励み、健康であったことが両親への報恩であった。   

  

 

神原町花の会(花美原会)(253)  夜明けのポピーの表情と花模様

 1.  可憐な花の生命力

    特に、ポピー畑をお訪れた人数を正確にカウントしたことはないが 、5日から7日までの3日間で約550名ほどではなかろうか。一人がポピーを20本前後お持ち帰りされてもその数は大量である。さすがに一つの密集したヤマはきれいに散髪された感じであったが、昨夜は久しぶりに雨も降り、早朝訪れて確認したら新しい花が多数咲いていた。かよわい可憐な花のように見えるが以外に生命力は強いものがある。 

2.夜明けのホピー

   ポピーを観察するには、夜明けが一番である。 無風と感じる早朝は、ポピーが開花すると最高の状態で愛でることができるからだ。この点、管理者の立場は恵まれており、管理者冥利に尽きる。日中は一つひとつのポピー花を写真に撮ったりすることは、この花畑では風をさえぎるものが全くないから、激しく揺れ動き困難を伴う。それだけポピー花弁は微風にも揺れる繊細な一面を有しているともいえる。

 夜明けから花畑の付近の皆様に迷惑をかけてはいけないので、物音させないで静かに訪れ静かに離れる心遣いが必要である。泥棒と間違われるほどの配慮が肝要である。 

3.夜明けのポピーの表情と花模様

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のポピ0f:id:y_hamada:20170509071918j:plain

《 7輪のポピーを並べてみた。全く同じものはない。よく観ると一つひとつが異なった形態と色彩である。まさに表情や花模様が違っているから自然界の不思議な造形もに驚くばかりである。生きとし生けるものは、品種が同じであって、同じように見えても同じではない。人間も動物も植物もそれぞれ顔が違い、行動様式、性格も異なる。ポピーが言葉を発するとすればどんな感想を述べるであろうか。》